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ましの部屋・グレーゾーンの石器群

  1949年晩春、相沢忠洋氏岩宿で切通しのローム層中から黒曜石の石器と小剥片のみを出土する文化遺物を発見。後の先縄文・無土器・先土器・旧石器など様々に呼ばれる、縄文に先行する文化の発見につながった。あまりに有名な岩宿遺跡の発見であるが、今日、旧石器文化と呼んでよいのか、その研究の足跡を、かたよった資料から振り返ることとする。というのも、手元にあるのは、少しばかりの学史の本しかなく、恵まれた環境ではないが、少しでもやれば何かが見えてくるかもね。

 1949年日本列島における旧石器文化の存否について、長谷部 言人氏による明石の発掘調査結果について、人類学雑誌上に否定的な論調がいくつか掲載された後の岩宿遺跡である。杉原氏の論調は一時旧石器として岩宿を位置付けられたかに思われたが、その後の研究会では、確実には、縄文最古の稲荷台式以前のものとして取り扱われるに至った。それまでの、学会の定説を覆す発見は、なかなか簡単に受け入れられるものではないらしい。縄文遺跡の発掘でロームに到達すると終了、こんな常識の中、杉原氏らの発掘は、期待薄しの気持ちで進められたようで「味気ないといったらない」と当時をふり返っている。    

 発掘地点の設定も、相沢氏の発見場所とは反対側を掘ってますね。崖のカッティング面に砂利のようなものが少しでもある面ということで決まったらしい。ロームは火山灰土で砂利のようなものが混在する事はなかろうから、そういうものがあれば、人為的な臭いがするといったことでしょうか。最初はバルブをもった頁岩の剥片、それでも、形状のしっかりしたトゥールを狙う。執念は見事に終了ゴングの10分前に杉原御大自ら、伝説シャベルで探り当てた。

 「貝塚」の1949年度の動向に、岩宿調査の件が江坂氏によって紹介されている。そこには、稲荷台式の発掘地点は、150m隔てた同丘陵上で石鏃等を伴うこと、今回の岩宿文化層との間に70㎝くらい笠懸層(ローム)が介在することで、新石器初頭より遡ることが判明したが、北関東のロームの年代が、洪積世か沖積世かという判断が明確ではなないため、後期旧石器後半期か中石器なのかは今後の課題と結んでいる。

 この点は、鹿間・高井両先生の意見が違っていて、「洪積世の終わりに入るので旧石器でよかろう。」「沖積世に下る可能性がある。」と肯定・否定の2派に分かれたそうであるが、高井先生には、東大の誰かが圧力をかけたらしいと、また、同時に北関東のロームが沖積世に下るもので、あの石器類は縄文のものとして周囲が騒いだとも芹沢氏は述べている。

 岩宿調査の中オート三輪でのり込んで来た人物は、山内先生だったらしい。その時、地質学者2名が連れて行かれたらしい。先生は縄文研究の父と称され、その研究から縄文の起源追求、その先に何が見えていたのであろう。関東の岩宿で、こともあろうにローム層中から洪積世の遺物が掘り出されている。アプローチが異なったのか、縄文をおさめた学者は、縄文以前の文化を予想していたことは十分に考えられる。それが、思わぬ別の方向から、明らかにされようとしている。山内先生は、薗田芳雄氏とともに栃木県の普門寺を調査し、報告で岩宿文化層含む上部ローム層を土器を包含する層で沖積世層のものとし、岩宿遺跡も同様の時期とした。その後、山内先生は、芹沢先生に、明石原人と岩宿を「ダブルプレー」と言ったらしい。その反面、茂呂のナイフ形石器を所持するといった状況であった。

 世の流れから行くと、相沢さんはなぜ東大の山内先生を訪ねなかったのか、当時、最も古式の文化を追求していたのは山内先生ではなかったのか。その後、考古学的手法により日本列島を旧石器から縄文へと編年され、岩宿を含む多くの石器群を無土器文化として沖積世のものとし、丹生が旧石器として組み込まれた。炭素年代等に異論を唱えられた先生は、あくまで考古学的手法に基ずくもので、自然科学者は考古学的方法の正否を問えないし、考古学者も炭素年代という自然科学方の根本を崩すことも出来ないままに、平行線はつづく。今日、その問題は、自然科学による関東ロームの分析や年代測定等により解決されたかに思えるが、実は、一方が途切れてしまった結果による所が大きいと聞く。

 岩宿の調査に始まり、立川ローム中の石器群は数多くの調査を経て相模野や武蔵野を中心に石器群の編年研究が進められ、誰もが認める最古の石器群は、Ⅹ層中に存在する。不幸ながら捏造事件が全国を席巻し、今や、、Ⅹ層中の石器群を最古と位置づけ、それ以前は無人列島と解釈する側、いやそれ以前に遡るという側と、やはり、杉原仮説が未だに輝き続けている。一方で、捏造事件後もいくつかのより古いと考えられる石器群の調査が行われているが、いずれも、、Ⅹ層文化のように認められていない。こういうものをグレーゾーンと称している。つまり、杉原仮説の①と②の両者を証明できる石器群は、まだないことになる。しかし、このグレーゾーンは何とも魅力的であり、いまなお、探し続けられている。杉原対芹沢の構図は、世代を越えてなお歩み続けている。

 最初に取り上げられるのは、N.G.マンローで1905年神奈川県の酒匂川の礫層から1~2tの礫を発掘して石器と思われるもの、また、早川の基底礫層からのもの合わせて7点を写真で提示゛した。「プレ ヒストリック ジャパン」である。これは、ヨーロッパのアッシュール文化の指標とされるハンドアックスが礫層から出土している状況が多分に影響していると感じられる。写真(芹沢 古代史発掘 最古の狩人たちP 101)を見ると2はピック、7はハンドアックスに見える。マンローは、ヨーロッパでの石器と発見状況をそのままに、日本に当てはめようとしていたのだろうか。芹沢氏は、杉原氏が渓谷に露出する礫層と言ったのに対し、礫層と赤粘土層ですと、より細かな説明をしている。(シンポジウム日本旧石器時代の考古学)実物は失われているのであろうし、その後、同所を発掘した事はないようだ。写真だか2.5.7は、実物があれば面白いかもしれない。早水台と比べてもそれほど劣っているとも思えないが。赤粘土層をもう一度調べたらどうだろう。日本の礫層はだめか。

  昭和11年『ミネルヴア』創刊号の座談会の席上、甲野(座長)と江上・後藤・山内・八幡5氏の談話が掲載されている。最初の題が日本に旧石器時代があったかどうかという点では、日本に旧石器は存在しないという定説の中で、思い切った題である。もっとも、結論は考古学の現状として旧石器時代の存否を論議するまでに至ってないとし、縄文文化を最古としながら話が進む。

特に、縄文文化の終焉問題において山内氏は、「實にいかがはしい事」と言い放った。喜田貞吉氏は、怪しいものを提供した責任上としながら、実例をあげて反論した。これが「ミネルヴア論争」のはじまりであった。

本筋にもどすが、口火を切って山内氏が旧石器として確実なものはないと断定し、その上で問題になったものを示した。マンローの酒匂川・早川の例である。鳥居先生が程ヶ谷あたりで類するものを探したと八幡氏が発言する。後藤氏は河内国府の大形打製石器が問題になったとした。確か、喜田氏が「ぶさいくなる大形石器」として紹介したが、偶然の作として浜田耕作氏が否定論を示したと思う。

 直良氏が、播磨の海岸で洪積世の哺乳動物と一緒に石器類のことが話題にのぼり、条件をそろえ研究を続けており、いつか良い結果に恵まれると山内氏が述べている。すでに、朝鮮半島や中国で盛んに調査され、ハノイ近辺でも発見されていることを江上氏が報告している。北海道でマンロー氏が旧石器らしきものを発見しているが層位や搬出物が不明であることを甲野氏が伝えている。そのほか、曽根氏の椿山のエオリスは、石匙が一緒に出ている点で危ないことを山内氏が指摘している。まとめとして、旧石器としてまとまったものの発見はなく、人工品としての打裂した証拠やバルブがあるものもないと山内氏が述べる中、注意すべきは「尤もブルブス必ずしも人工とは云えないし、それがなくとも人工の物もあるでせうが」と具体的に石器と自然石の違いについて簡単ではあるが重要な指摘をしている。これは、思うにヨーロッパのエオリス論争あるいは、中国の周口店を踏まえての発言か、あるいは、金関丈夫氏の所から借用した先史学の大辞典からの引用なのかは分からないが、昭和11年の段階でいうなら、旧石器への関心はかなりのものと推測される。

 同じ頃、八幡一郎氏は、諏訪湖の湖底「曾根」より採集される石器群に着目し、石刃あるいは石剃刃と称される一群について北海道を含む北日本の「所謂細石器」は一般化さなかった。つまり、根づくことはなかったが湖底より採集されるものと共通するテクニックであることから注意を促している。そして、当時までに知られていた蒙古の石刃と極めて似ていることを強調している。その上で、ヨーロッパからアジアの広範囲に細石器の分布が見られ、その代表的なものが石刃としている。そして、テクニックなる手法は同じだが、石材が異なる。おそらく、大陸のものはフリントで、日本のものは黒曜石であるため、その材質の違いは大きいと判断されている。また、手法的にも北海道のものの方が、より大陸に近いとも述べ、曾根湖底のものは若干異なる点をあげている。また、曾根のものには確かなブルブス(バルブ)が見られない点で本格的な石刃とは見做されないという山内氏の意見を取り上げ、石核を欠いている点(山内氏の意見か、八幡氏の私見かは分からない。)も問題としている。ここでも、山内氏の存在はかなりクローズアップされている。

 山内氏は、昭和24年の岩宿発見の石器群を無土器文化としたことは有名である。「縄紋土器の改定年代と海進の時期について」の中で 「地質学者がその発見を賞賛し、一般先史考古学者の遅愚を罵倒した。」と記している。そして、縄文文化は無土器文化から発展したものではなく、その初期において大陸伝えられたとし、岩宿を代表とする無土器文化が不毛なもので、高度の技術を有する縄文文化の祖たりえないとしている。

 当時の情勢からして、昭和24年代に少なくとも日本最古の縄文文化研究の第一人者であり、当然、それより古いと思われる文化の一端が明らかになろうとする場合、相沢氏はなぜ山内氏の所に走らなかったのか、探ってみたくなった。グレーゾーンの石器群というより、グレーな研究者社会かな。

  相沢氏は、江坂氏のお宅に伺っている。最初は尾崎氏そして清水氏から江坂氏と移ったと記憶するが、とにかく、芹沢氏との運命的な出会いは、江坂氏宅である。たしか、槍先形のものを持参していたが、江坂氏には見せず、芹沢氏に見せたらしい。そのころ、M・バーキットの本が基本となっていたらしいが、杉原・芹沢両氏の勉学は確実にヨーロッパの旧石器文化を研究していたのであろう。ちなみに、杉原氏といえば弥生の研究がまっ先に浮かぶし、芹沢氏は山内氏あたりとの接触をもって縄文文化の研究に進んでいたかと考えるが、その実、日本列島内ではグレーゾーンとされた旧石器文化の研究にも両者が手を染めていたようである。

 先史考古学の第一人者山内氏は、当然、縄文文化の底を求め、さらにその先にあるものを探られていたことは周知のことである。相沢発見から尾崎→清水→江坂→芹沢→杉原という順序が岩宿調査発見の流れであるが、そのころ、登呂遺跡の発掘で関東の学者はほとんど静岡で、たまたま、縄文の江坂氏と明大の助手の芹沢氏が東京にいた。一方、山内氏は、昭和23年には関東にいて普門寺遺跡などを調査、よく24年も登呂遺跡とは無関係な状況であり、しかも、東大の講師であり相沢氏の足が向けばどうなっていただろう。少なくとも当時の山内氏は、江坂・芹沢両氏に比べ縄文研究者として、当時考えられていた日本列島での最も古い文化の研究を牽引していた人物である。そのあたりが面白いところである。

 鎌木氏は、山内氏の岩宿をはじめ茂呂など次々に発見される古式の文化に関心を持っていた点について、剥片石器などヨーロッパのものとの対比や岡山に来て鷲羽山の石器を見たり、鹿間氏と尋ねてこられたりしたこと、また、茂呂遺跡出土のナイフ形石器を所持され、含みをもって鎌木氏に接したことなど、かなり、興味を示していたが表に出すことはなかった。それが、丹生遺跡問題につながっていくようであるが、発端はやはり岩宿遺跡の調査を自分でできなかったことが、ずっと影響するようである。

 それでは、なぜ山内氏に情報が伝達されず、明治大に伝えられたのであろう。それこそ、芹沢氏の旧石器研究と探究心があって、初めて槍先形石器を見た瞬間、しかも赤土の中から出土するという情報に対して素早い行動が取れたのであろう。その情報が、弥生研究の大御所である杉原氏に伝えられ、登呂遺跡という戦後最大の弥生集落発掘において、いわば、陣頭指揮に立っていた杉原氏が、こっそり現場を抜けてまで岩宿にひきつけられたのであろう。後に杉原氏は、登呂遺跡の終了後に向かったとしており、「旧石器の狩人」の中では、現場の途中で姿を消したとも記されている。

 杉原氏は、登呂遺跡から芹沢氏に手紙で、1日でも2日でもいいから登呂で発掘をやりなさいという誘いを行い、芹沢氏の返事は、重要な石器に関することがあり、先生の帰りを待つという内容であったという。昭和24年9月の4日か5日に杉原氏が帰ってきて、8日に相沢氏とあっている。

 昭和22年相沢氏は、岩宿を訪れるたびに膨らんでいく縄文文化以前の新文化の発見の可能性を秘めながら、群馬大学の尾崎氏を訪ねる。そこで、縄文早期の文化から突き詰めていくべきと諭されたという。もっともなことで、突然、それまで火山灰が熱く堆積した死の世界に、人類文化があったとは考えれないことである。したがって、縄文最古の文化からさかのぼる必要性を説かれたのであろう。

 それから2年、岩宿通いが続けられ昭和24年、日本考古学研究所をはじめ清水潤三氏等に手紙を出すが、実物を見なければといういずれもの返事に、ついに、東京へ向かうこととなる。日本考古学研究所からの返事は、芹沢氏だったようで、何度か手紙のやり取りが合ったらしい。相沢氏は東大や武蔵野郷土館を回るが、当時の関東では、登呂遺跡の発掘でもぬけのからといっていい状態であった。ようやくにして江坂氏の所に行き着く。そこで、芹沢氏との運命的な出会となるが、最初に相沢・芹沢両氏の対面では、石器を持ってきていなかったらしい。そこで、出土する深さやどのような層か調査するように告げたとしている。その後、間違いなく赤土の中で1~1.5m、赤土の下に黒っぽい層(ブラックバンド)がありその中からも間違いなく出土するという内容を何度か手紙でやりとりし、そして、相沢氏が石器を持ってきたとあり、江坂氏宅でいきなり内緒で石器を見せたというのは違うようである。

 杉原氏が帰るとすぐに相沢・芹沢両氏が石器を見せている。杉原氏は尖頭器より石刃状の剥片に興味を持ったという。バルブのあるカミソリのようなその剥片が、縄文では出ないもので、むしろ、ヨーロッパの旧石器時代のものに似ていた点であった。昭和10年に八幡一郎氏がすでに予察的な論考を示した。

 9月4日か5日に帰った杉原氏が、8日に実見し10日には現地入り、11日に岩宿の露頭を掘削していたという。この迅速さを藤森氏は台風と表現し、杉原氏は「疑わしきは掘れという明治の学風」という言葉で表現した。

 山内氏の方に話は戻るが、縄文早期を水戸式まで追及されていた。昭和14年白崎氏が稲荷台で撚糸文土器を発見する。しかも、ローム層に食い込むように出るというのである。これに江坂・芹沢両氏が合流し踏査が開始されたのであるが、そこに、山内氏が登場するのである。もっとも、関東の早期については、水戸・田戸など撚糸文の次の段階から編年が完成されていた。山内氏は、水戸式以前を予察されそれを縄文最古の土器とは断定せずにいた。

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嘉穂盆地で旧石器を発見しよう。(原産地も見つけよう)

さて、いよいよ嘉穂盆地で旧石器を発見しようという大きなタイトルをつけてしまった。もう何年になるだろうか、嘉穂盆地内においてこの手で旧石器を探そうと意気込みばかりで、過ぎてしまった日々。丘陵や溜池、台地を歩いたが何の手がかりもない。落ち込んでは這い上がり、歩き回ってはまた落ち込みと何度くり返したことだろう。杉原君には可能性のあるものが出るたびに、見てもらうが決め手に欠けるものばかり。もっとも、それなりの物が出れば私にもわかるのだが、とにかく可能性は捨ててない。一つわかってきた事は、阿蘇4と称される古い火山灰土が結構残っていることで、そのような古い土壌が残っているなら、思ったほど侵食されていない地形が方々にあること。今のところ、嘉穂・碓井・桂川・筑穂という遠賀川や穂波川上流域にそのような古い地形が残っているように思う。飯塚の西側あたりはすでに基盤層のマサ土がむき出しになっている場所が多く、結構風化が進んでいる。

 先日、旧碓井町の日吉神社境内にある古墳を福大が過去に調査したが、その際に出土した数片の黒曜石を見ていて、2点ほどであるがパティナが厚く、結構古そうな破片を見つけたので、例のごとく杉原君に見せに行った。基本的に定型的なトゥールが存在しないので決め手に欠けるが、意外と古いものであろうという見通しがついた。そこは、丘陵で古墳があるがいかにもそれより古いものがありますよという感じで、魅力的である。最近、家の新築で浄化槽の掘削に立ち会った松浦君から、阿蘇4を確認した旨画像とともに見せてもらった。

 御塚古墳の調査でも、低位段丘と思われるが阿蘇4を確認している。意外と身近なところで発見するかもしれないと思っていたやさき、10年近く前になろうか嘉穂の馬見で大型前方後円墳ではないかと確認調査したのだが、自然丘陵だった稲荷前遺跡で、頂部にあった石蓋土壙墓5基を確認調査した際に、発掘区を下げていったが、当初から石蓋が一部見えるほど削平されたところで、表土直下から赤土であった。それも30~40㎝くらいで、花崗岩の風化した岩盤のような基盤に達した。発掘区中央がやや窪んだ状態で、古墳の主体部かと思ったが、いかにも自然な落ち込みであった。その辺りを掘っていた時、おばちゃんが水晶を見つけた。「こりゃすごいね」といって手に取ったが結構大きな水晶で、きっと岩盤から突き出ていたのだろうと思い、自然物として取り扱っていたが、先日、改めて見てみるとどうも基部を調整して、縦長剥片を取ったコアのようである。ちょうど、先端を下にすると円錐形のコアそのものに見えるのだが、数ヶ所に縦長の剥離痕が存在するようである。

 まてよ、確かに赤土の下部から出た記憶があり、土器類は全くなかった。赤土は鳥栖ロームの可能性がある紅土である。硬い水晶の剥離面は風化し稜線の鋭利さはない。もちろん丘陵の最上部で礫層でもない。ちなみに、馬見・屏・古処は厚い花崗岩が山全体を持ち上げていて、ペグマタイトが各所に見られ、馬見山の山腹や特に古処山複の白石山では大量に石英や長石が取れ、煙水晶とよばれる水晶が多く取れる。そんな、山々の麓に位置する丘陵の頂部から採集したものである。

 早速、杉原君に電話して近々見てもらうことにしているが、縄文や弥生の遺跡から1~2点ほど水晶が出土している。しかし、今回は明らかに赤土下部である。内心ワクワクしながら、水晶や石英が豊富な馬見連山の山麓にある高原のような場所に、今度は目を移そうと考えている。石英は自然崩壊でも薄い剥片のような鋭利な素材を生み出す。特別な加工はいらないままに、自然と石器として使える。しかも、広く分布する花崗岩地帯ならいたるところで見ることが出来る素材である。中国や韓国でも古い石器の石材として大いに利用されており、これを逃す法はない。芹沢先生もそんな考えがあったのかな。石英系からチャートへと九州から関東へと場所を移されたが(宮城は抜きにして)、全谷里の資料を見ると、石英を粗いが確実に人工加工が施されているのがわかる。周口点の実物を見ていないのが残念であるが、礫ではなく露頭から採集した場合も想定しないと、3~4万年は越えられないだろう。

 諏訪間君よまっていろよ、その内、とてつもなく古い石器を土産に神奈川に乗り込むぞ。おっと、ゴッドハンドはなしで行くよ。

旧石器の認定は、石英やチャートといった石材に対して、厳しい検討を行なってきた。にもかかわらず、今だ認定の方法は曖昧である。そこで、いかにも人工加工が施された品々が、自然科学で認定された確かな地層から検出されれば、自ずと認定されるという方式にのっとって、縄文以降、あるいは新作の石器を埋め込んだのが、捏造事件である。必ず、礫などの状況にある自然石を割らないと石器は作れないのか、露頭や崖錐堆積物から採集したほうがやりやすいのではということを常に思っている。

4月23日九歴に杉原君を訪ねる。稲荷山遺跡の石棺墓群近くから単独出土した水晶で、赤土(鳥栖ロームか?) より下の花崗岩系岩盤近くに位置していたもので、近年まで花崗岩の岩盤より結晶したものと考えていたが、基部から先端に向かって数条の剥離痕が見られることに気付いた。また、側面の斜め下から水晶の稜線を剥ぎ取る剥離も見られ、水晶製の石核の可能性が感じられた。そこで、いつものように杉原君に連絡を取ったわけである。多忙な彼には申し訳ないが、実物を見てもらい感想などを聞いて、次なるステップへと進むのが最近の私の行動パターンである。

水晶は、自然に稲荷森の赤土の中で1点のみ大きく結晶したとは考えにくい。また、礫層はなく、人為的に持ち込まれた可能性はある。ただ、これまで確認されている水晶石器は透明のガラス状に結晶したものを使用している。旧嘉穂町でも数点出土しているがいずれも透明な良質の水晶で、今回のように煙水晶のようなものは使用されていない。最もである。

行橋市の渡筑紫遺跡は、水晶を原材とする旧石器が確認され、石器製作所の可能性が指摘されている。水晶はやはり透明なものを選択して使っているようで、ATより下層から検出されたことで3万年前後の年代が考えられている。水晶以外には珪質岩、黒曜石、安山岩で、黒曜石以外は付近の石材を利用している点に特色がある。関東でも立川ロームの下層のものはチャートやホルンフェルスなど身近な石材を多用しているようである。

韓国の全谷里や金坡里など明らかに石英を石材として使用しており、それをうまく連続的に剥ぎ取って石器を作っており、その剥離も交互剥離である。また、核となるものとそれから剥離した剥片が共存しており、人口品であることが容易に分かるという。全谷里より金坡里のほうがもっと分かりやすく、ハンド・アックスから剥ぎ取られた剥片は、バルブ等が確認されると思わせる見事なもので、かなり硬い石材をうまく加工していたようである。ちなみに、石材は身近で手に入る石英の礫を使用している。

その後、中国の丁村遺跡の石器の話しになり、玄武岩を見事に加工していることが分かったし、周口店も脈石英という洞窟内でも入手できる石材を多く利用しているという。そういう点から考えて、当方も石英や水晶、玄武岩、チャートにもう一度絞って探そうと考えたわけである。

古処山の麓に白石山と称され、以前、石英や長石の採取がなされていた。もちろん、ペグマタイトの部分で、水晶など色々な鉱物が採集される。そこには、人工的に粉砕された石英が山のようにあり、観察するには十分ありすぎるほどだ。それらの特徴は、観察したものにバルブがなく垂直に切ったような面を見せている点である。また、両脇には鋭い刃部が自然に出来ており、下手をすると皮膚を切りそうである。つまり、石英は剥片を剥ぎ取るという目的意識の基に剥ぐとおそらくバルブ状のものが出来ると考えられるが、単に破壊されたり自然崩壊ではバルブ等の痕跡が出来ない可能性がある。一つにはハンマーの質や使用法、角度などの条件が充たされた場合に全谷里や金坡里のような剥離が生じるのであろう。削岩機や単に石同士がぶつかり合ってもなかなかそのような形状は生まれないと思われる。

結論は、コアと剥片がセットで見つかる。出来れば接合できるものという条件をまずクリアーしたいものである。

嘉穂地域を考えるなら石器の原材となるものに、どのようなものがあるのか考えると、馬見から古処山にかけて点在する石英や水晶、琴平山、帝王山、市室山の三山はいずれも火山で玄武岩の産出地である。それから、竜王山東部の段丘礫にはチャートが含まれている。原材料を確保し石器製作を行いながら生活するには、その周辺で狩猟と採集活動に適した台地や丘陵がその第一候補となろう。石英や水晶なら馬見から千手付近、玄武岩なら上臼井や西ノ郷、上山田、入水付近、チャートなら飯塚市南西部の丘陵地帯となる。

石英では、久保白ダム南側に一ヶ所小規模ながら石英の断片がちらほら露出する場所があり、不透明ではあるが水晶の大きな塊を採集した。チャートは明星寺から東側あたりに見ることが出来る。

いよいよ、連休に突入するがこのさいもう一度歩いてみることにする。その時はメガネを携帯しなければ、足元がぼやけて見えにくく、歳を感じるこの頃である。

長くなるかも。今日も今日とて石器探しに出かけた。短くまとめるとスカである。しかし、長く書こう。桂川の天神山古墳の丘陵から土居の老松宮、久保白ダムの石英の場所、西横田の切通し、最後に火山である琴平山に登って表面採集を行なう。久保白は、切通しの断面に花崗岩の岩盤が露出していて、それがダムを周回する道路建設により壊され、混じりこんだようである。西横田では切通しの下に白色の先端が鋭利な剥片状のものが目に入る。急いでフェンスを乗り越えて拾うが、自然の石片でがっかりした。相沢さんにはなれない。

最後に琴平山に登りながら玄武岩の石器を探す。これもスカに終わる。ただ、面白かったのは、山頂から山腹、山麓に至るまで露出する玄武岩は、大小を問わず全て角のない円礫で河川の堆積物に見える。もちろん六角柱のものはない。頂上付近に平地があって古墳が3基あるが、それは奥の方で手前に平地が広がっている。古墳は平地を利用しており、その時期にはすでに平地だった可能性がある。頂上付近は城郭遺構があり、切岸が施された小曲輪と鍵手状の虎口が確認できる。古墳の盛土上から土器片を採集するが古墳より古式のものと思われる。平地で玄武岩を加工し石器に仕上げた跡は全くない。以前、同地点で黒曜石を採集したというが、何のためにその平地にいたのだろうか、冬場にまた登ることにする。

もう一つわかったのは、山の南側に火山の噴出物と考えられる堆積層を発見した。その下層には第三紀層が接触しておりその層を突き抜けてマグマの噴出があったことがわかった。凝灰岩系の石となっているそのものは、琴平山の南に位置する標高60mの位置にある竹生島の古墳を発掘した際に、その凝灰岩系の塊が多く出てきたが、全く同じものとわかった。とすると、同時あるいはその後に小火山が出来たのか。これはこれでよい結果となった。

やはり、長い。

5月8日(金)極細のクモの糸が降りてきたかな。カンダタではないが、天からするすると春先の子グモの糸のように細くて弱々しいヒントが見つかった。以前にどこかに書いた旧碓井町の竹生島古墳の発掘調査で出土していたフリント製の石器、石材の確かなところはわからないが、火打石にある灰色の珪質岩で、周囲から出土した遺物にもとづいて縄文早期以前のスクレーパーか、あるいは、お宮の裏ということもあり近世の火打石かということで、『竹生島古墳』の発掘調査報告書には記しておいた。

ところが、松浦君が突然、桟敷原遺跡の貯蔵穴出土遺物の中に同じ石材がありますよときた。まさに、「来たー」であった。さっそく、今日持ってきてもらって両者比較すると同じ石材である。桟敷原は貯蔵穴内から弥生前期の土器がかなり出土していたが、上部が削られていて、1/3が残っていたような遺構である。まずもって、近世の物が混じったとは考えられない。しかし、弥生の石器に使用したものでもないと考える。残るは包含層をぶち抜いた跡に弥生の遺物と混在した可能性が高い。

残念ながら何型石器とはいえないが、同じ石材が出土した事は、まずもってうれしい限りである。一つは原材料の産出地あるいは同石材の石器類例を探すこと。もし、見つかれば時期的にどうなのかがしりたい。

後日、筑豊の連中に聞いてみるが、嘉穂地域ではお目にかかっていない石材で、今のところ碓井地区限定で、しかも、古い可能性がある。専門家に石材鑑定を依頼するしかないが、遠方であればこれまた面白いし、近くで見つかるのならなおさらのことである。

おっと、途中で糸が切れないように気おつけよう。

注意しなければならないことがある。この石材は一見姫島の黒曜石と間違える可能性がある。それなりに注意すればわかるが、灰色や灰白色の石材イコール姫島と考える場合があるようだ。

ところで、桟敷原の貯蔵穴の断面写真を見た。深さ50cm程度しか残っていないということで、穴の規模からすれば、下層の堆積物になる。問題は近世の遺物が混入しているかどうかである。調査時には表層に新しい遺物や礫など、つまりお宮の社殿をつくる際に、整地したものでその部分が最も上位の薄い層で見られた。しかし、その下方の上層には弥生土器はあっても新しいものはないという。

5月18日石材をもって岩石専門に会う。見た瞬間姫島では、あんのじょうの答え。次に桟敷原の資料を見せる。そこには自然面が残っており、すぐさま長石が付着している。おそらくカリ長石でしょう。これは、堆積岩つまりチャートではなく石英で、ペグマタイトならあってもいいです。また、写真の面は、過去に割れた面ではなく、石英等に見られる直線的な摂理面ですとの回答であった。竹生島のものもよく似ているそうで、いずれも火成岩に属するものでしょうということであった。

 竹生島出土の剥片=火打石、桟敷原の石片=弥生以前、竹生島出土の剥片=桟敷原の石片となれば、竹生島出土の剥片は弥生以前となり、しかも、石英系で古処山近くに見られるペグマタイトに発達した灰色の石英を割り出した。あるいは、そのあたりから河川や斜面の転石として存在したものを利用したのか。現地には灰色の大きな石英が打ち割られて山のようになっている。そこから石材を採取するか転石を利用すれば、いいわけである。

 近世に火打石の原材料も採取していたかもしれない。もし、このての石材で石器を製作するとすれば、古い可能性は十分にあろう。姫島と思っていたものが、実は朝倉花崗岩帯に伴うペグマタイトからとなれば、石英製の古式石器に出会えるかもしれない。面白くなってきた。全谷里か金坡里のように石英製、しかも、灰色の石英製ハンド・アックスに会えるかも。・・・江戸期あたりに火打石採石場だった可能性もあるな。文献も見てみよー。

  1 探求 竹生島古墳から出土した剥片は火打石か?

上記の問題について探求する必要があろう。なにせ、火打石と言われてもピント来ないのが現状で、通常、当地域で石器に使用されていない石材ではある。灰色の石英質でチャートではないようである。このような灰色系の石英は、古処山の北麓に白石山という、かつて、珪砂や長石を採石していた場所があり、一般には、水晶が取れる場所として知る人ぞ知るという場所がある。そこは、朝倉花崗岩帯に伴うペグマタイトが存在しており、石英の露頭がある。産出する石英は白色のものが多いが、灰色の黒色系のものが混在する。放射性鉱物によりそのような色合いになっているらしく、水晶も煙水晶のような灰色の色彩のものが多い。中には緑色を帯びたものまである。

 藤木 聡氏が古文化談叢に火打石の集成を行なっている。本日、福岡地方紙研究会で古八丁越の諸問題ということで発表したが、当然、県立図書館での発表で、いそいそ出かけ藤木氏の論考をコピーしてきたのである。中を読んでいるのだが、灰色系の石材が出てないようではある。江戸期以前はかなり高級な品であり、地産地消が基本らしい。しかし、高品質のものは、地域を越えて広がるらしく少し興味を抱いている。

 藤木氏と連絡がついた。近々に福岡に来るそうで是非とも物を見てもらいたいとたのんだ。九歴の展示ケースを久々に見学したら、築城町石町遺跡で出土した、白色の石英で製作されたスクレーパーと灰色のチャートかな、桟敷原で出土した灰色の石英に似た石材で大きな石匙が展示されていた。また、今日は長谷川さんのところで、北古賀の石鏃等を見せてもらったが、灰色のチャートせいのものがあり、塩見先生の指摘したものとは異なるもう一点を見つけた。確かに姫島の黒曜石は多いが、色合い等で判断すると危ない。竹生島も灰色で一見姫島に見えなくもない。黒色は伊万里、灰色や乳白色は姫島という先入観がそうさせるのかも知れない。時間が許すなら再度、姫島産のものを見直していただければ幸いである。

 話は戻るが、出来れば火打石ではなく、縄文以前の石器で石材は、極めてローカルなペグマタイトに起因する灰色の石英であれば最高である。もし、火打石であればこれもまた面白いローカリティーな話題となろう。今度は、石英産出地近くの沢で礫を採集してみよう。

 マイリストに田川市夏吉の石灰岩からなる岩屋第一洞窟の写真を掲載したので、見ていただきたい。入り口は南西かな日当たりがよく、日光が少し差し込むようだ。県指定の天然記念物で調査は難しいだろうが、やるべきと考える。入り口は人の鼻の穴のように2つに別れていたが、一方を塞いでその上に階段を設けて入れる。もう一方は昔のまま、外から入るようになっている。洞窟の高さは、下方に水田があってそこから3~4mというところにあり、平地に開く洞窟で、見晴らしがよい。洞内堆積物は、地盤が黒色土で硬くしまっているため、何ら遺物らしきものはないし、動物の化石が出たという話もない。ただ、入り口前のテラスはやや広く、天井が崩落したようすがうかがえる。特に、向って左側にはその残骸の岩が積み上げられており、それをきれいにすれば、結構な広さの前庭部調査が可能だ。洞窟下の水田はすでに鉱害復旧等で整備されており、状況から洞窟前の斜面を多少削っている。何か出土したかもしれないのだが、情報が入らない。残念。

 最近、『旧石器考古学』71アジアの礫器文化というものを買った。韓国の石英製ハンドアックスがかなり紹介されているのに驚いた。実測図はともかく写真を見ると、まあ、よく出土しているのに驚き、年代にまた驚いてしまう。全谷里と金坡里くらいしか知らなかったが、近年、怒涛のように出土しているのか。春川錦山里出土の写真があるが、最も上の左2枚、その下の左2枚、さらにその下の左1枚、最下の左1枚、それぞれの写真を見て、もし、福岡のように浅く旧石器から中世まで一緒に出土するような土壌に、このようなものが出土した場合、多分お手上げでしょうね。縄文があればそこに含め、打製石斧や礫器として報告するだろうと、私なら思いますね。特に、石英製のものは当初から頭にないのだから、扱いは雑になってしまう。それでも、ピックのようなものがあればまだしも、最下の左1枚の写真のものは、自然破砕の礫として取り扱うかもしれません。

 東海平稜の写真の右端は、よく見かける白色の石英製ですね。また、東海九湖洞の左側は、これまた白色の石英で、扁平な亜角礫を使用しているのかな。いずれにしても、私だけでしょうが、黒曜石・サヌカイトに目を奪われるものですから、石英に届かない。韓国のものを見ると石英製でも大型で加工がはっきりしている。しかも、礫層あるいは河原から採集したような亜角礫や円礫をたくみに加工してしっかりしたものをつくっているように見受けられる。九州で言えば早水台が石英系の石材を多用しているようだが、比較するとやはり、うーんかな。

 仮に韓国あたりから動物群とともにわたってきたとしたなら、北部九州に足を着けるであろうし、何といっても石英は多いから、特別に石材を求める必要はないわけで、日本からどんどん実物を見に行った方がよいと思う。案外、見過ごしていたりして。

 それと、石球とかとかいう球形の石核は韓国の博物館で見ましたね。石枕のようなやつで、これも単独で石英製のものが出た場合、どうだろう。実物をガラス越しに見たが、あんな形状の石核は見たことないし、石英製で剥離も平面的なカットで、ひよっとして、よくて敲石、下手すればただの円礫かな。とにかく、旧石器の先生方、日本中で日々発掘やっている連中は、なかなか理解できないし、自然礫扱いすれば資料は、埋め戻されるか、持ち帰っても洗浄で終わり、選別からはずれる。それでも掲載すれば、実測図からは石器と判断されない図面が仕上がり、縄文あたりに位置付けられる。先生方も全ての報告書に目を通すこともないからそれで終わり。なんて悲しい道を歩む。

 ところで、国府遺跡から発見され喜田貞吉先生が報告した、例の大型粗製の石器は洞位置付けられているのでしょうか、ご存知の方は教えてください。

 6月14日日曜、今日は宮崎から藤木君がやってくる。珍しく土曜の夜に持っていくものを準備した。竹生島の暗灰色石英系の整った剥片が、はたして、火打石なのだろうか。彼のメールによれば1990年代に私と同じ場所に出没して採集していたらしい。私が1970年代だから20年くらいずれているかな。私は現職の身で嘉穂の発掘をやっていた。彼が回るならもう少し遺物を残しておくべきだったか、私の後にそのような人物(表採屋)が出現するとはいざ知らず、三島先生曰く「君たちが歩いた後は、草1本残ってないだろうね。」というくらい、徹底的に拾った。しかし、高橋池で最初のナイフ形石器を拾ったのはすごい。加与丁池なら分かるが、高橋池は難しい。というより、縄文早期の古式石器がほとんどを占めており、最もめにつきやすい。

 九国博で待ち合わせエントランスで現物を見せて、ご教示を得る。火打石の写真をファイルにして持ってきてくれており、それを見ながら色々の話になる。そこに、杉原君が合流して深ーいいい話に、杉原説は、石材がこれまで未確認であること、目的が明確でない剥片の使用、もし石器であるならスクレーパーが近いのだが、剥離がスクレーパーエッジをつくってなく、曖昧な剥離が見られる。そんなことから、石器ではないだろう。とするなら、火打石が最も可能性として考えられやしないかという。藤木君はしばらく現物をこねくり回し、何度も確認している。それは、火打石に特徴的なエッジのつぶれである。結局金属に打ちあてるのだから、剥離はエッジの表裏に出来る。私も小さい頃石英とヤスリで火花を出して遊んでいたが、角があるところを自然とぶつけていた。そして、出来るのはつぶれであって鋭利な剥離痕ではない。

 藤木君は、火打石に否定的で、形状自体が火打石にしては整いすぎている点、剥離面が裏面に集中している。今までの火打石には見られない石材などから、やはり、縄文早期といった古い石器ではとの意見。

 私は、石器であってほしいし、縄文早期や草創期あたりとも考えたいが、火打石ならそれもまた面白い。江戸期寛文年間に勧請されたお宮の裏側で戦国期の城郭、あるいは、鎌倉時代のお寺の遺物もある。否定は出来ない。そこで、思いついたのが火打石として例えば、お宮の勧請、あるいは、建て替え等などの行事の際に、その儀礼時のみの使用と廃棄といった短期使用というものを思いついた。

 ただ、疑問に残るのは、方形の剥片を剥いだ技術である。表面に残る剥片剥離痕、この本体を横長に綺麗に剥ぎ取った技法、どう見ても石器製作の時代にマッチしていると考えるのだが。火打石の写真を見るとこのように美しい、所謂剥片はない。あえて言うならガンフリントの美しいものくらいである。答えはいずれでようが、意外と姫島黒曜石で終わらせている例があるのでは。

 ちなみに、古処山系の千手川と遠賀川に河川の礫を見に行ったが、石英が99パーセントないのである。花崗岩地帯だが、お目にかかれない。変成岩が主であり花崗岩が次に、石灰岩も一部にあるが、特に暗灰色の石英はない。原産地はどこだろう。またまた、課題が残った。 藤木君夫妻と杉原君には感謝します。

またまた、竹生島の剥片のことである。飽きましたかね。というのも、昨日送られてきた北九州市の報告書『巧網馬場遺跡』の最後のカラー図版に、あくまで写真であるが竹生島の剥片によく似た石材の石器や剥片がずらりならんでいるではないか、それは何かとたずねたら、あー姫島、姫島、姫島。それどころではないですね。暗灰色で撮影の光源に対してキラキラ光っているように見えますし、どことなく手触りがざらつくような感じで驚いてしまいました。真実は闇の中ですが確認する必要はあるかと、その事は、杉原・藤木両氏に伝えました。姫島ならまず吉留さんに聞いてみようかとも考えています。

 仮に、姫島ならおそらく、おそらくですよ縄文早期の前半を含め、それ以前となる可能性があり、結構大きな真正の剥片ですから、原石の問題も含めて面白いかもしれませんね。これまた、中村修身さんが『史学論叢』39号に書かれた「縄文時代の生産と流通(再考)」に書かれている、姫島産黒曜石の福岡内陸部への搬入が前期あたりというのがもう少し遡る可能性が出てきますが、あくまで、まだ分かりません。

 中村さんには、度々お世話になっておりますが、笠置山の輝緑凝灰岩原産地の問題についで、やや意見が異なるかもしれません。今回は、姫島産黒曜石だったらの話です。

 それと、北九州市の旧石器出土層について今までとは異なり、阿蘇4といっていたローム系の堆積層(鳥栖ローム)が似て非なるものかもという見解が述べられていたような。申し訳ありませんが、パラパラめくっただけでしたのでよく読ませてもらいますが、そうすると、過去に鳥栖ロームに関連して年代を求められていた数々の石器類も異なる年代となるのでしょうか?それにしても、韓国によく似た石材がありますよね。辻田なんかで出てるものですが、そのあたりもどうなりますかね。

先日、山口の小南氏から連絡があり、竹生島及び桟敷原の剥片について興味をもたれていることが分かった。また、ご丁寧に抜き刷りまで送付していただきこの場を借りて御礼申し上げます。私としては、何度か書きましたが縄文早期以前と考えていましたから、桟敷原も混在であると決め付けていました。しかし、よく考えてみれば桟敷原は弥生前期の貯蔵穴でイコールで考えれば、弥生前期の剥片という可能性が最も高いわけですね。また、竹生島も弥生前期末~中期前半の土器片が落ちており、可能性としては弥生も考えなくてはいけません。そういった意味で、小南氏の電話に改めてハッとしたわけです。

 また、桟敷原はサヌカイトのこぶし程度の塊が入っておりますし、かつて、弥生前期の貯蔵穴群を調査した宮ノ脇遺跡でも、サヌカイトの石核と複数の剥片が出ていたことを思い出していました。

 7/21連休明け、福岡県教育委員会から報告書が届く。イラハラ(漢字をわすれました)ダムの報告書が楽しみで待っていた。吉田氏の調査で噂ではかなり縄文、さらに、それ以前の旧石器まで視野に入れて調査を行ったと。そこで、ダンボールに厚く堆積した報告書の層を一枚ずつ剥いでいくと、ほぼ中部ロームあたりからその報告書が検出された。めくりながら驚いたのは、突帯文土器の多いことと、丹塗磨研土器片があるのだが、石器を見ると縄文である。さすがに、内陸の奥深くに大陸文化は浸透していないのか、しかし、突帯文土器の文化を考える場合、大陸文化とつながった側面をつい捉えがちだが、意外と水稲耕作とは関係のない場所から出土する。畑作を考えればよいかもしれないが、それとは異なり縄文文化そのもので生活している突帯文土器使用者集団を考える必要があるのかも。一つに突帯文土器文化は、3つの姿を見せる。一つは大陸系石器類を伴うもので、佐賀や福岡の平野部に水稲耕作を生活の糧とする集団、一つは、およそ稲作とは無縁な内陸奥部の地に縄文の石器を伴い、おそらくは縄文の伝統の下に暮らす集団、最後は、突帯文土器と縄文の石器、それに、大陸系石器を交えた中間的な様相で、内陸の丘陵地などに暮らす集団、それら3つの類型がありそうだ。これは、黒川あたりからありそうであるが、今回の報告書に孔列文系のものはないようである。

 今回の報告書では、縄文早期の前半段階に相当する遺物群の報告は少なかった。第2段に出てくるようで楽しみにしている。今回、柏原式の土器が報告されており、類例は増加するだろう。

 ふと、ダンボール下層の下部ロームに九歴関連のものがあった。まずは、1号から黒色表紙のまま今に至る研究紀要で杉原氏の旧石器関連が当初を飾っている。これは、水城から出土した旧石器に関連したもので、地峡帯だったか筑後につながる狭小な平野周囲の丘陵や台地から出土した旧石器について書かれていた。水城の報告書にさすが旧石器が掲載してある。阿蘇4の上にレスの堆積がありその中に眠っているらしい。旧嘉穂町になるが上西郷の丘陵地には、阿蘇4が結構見られるようで、以前、下山先生に写真を見せたが3~4mの阿蘇4が火山灰そのものの状況で堆積している場所がある。灰色で変色をせずに見れる。また、聞くところによれば、数百m下の丘陵にも、上部が真赤な土でその下に白い土の層があって、その白土を取って団子にしていたらしい。これも、鳥栖ロームと八女粘土であろう。しかし、レスと見られる層に当たっていない。ご存知のように嘉穂盆地はすり鉢と言われ、飯塚あたりは海抜0mに近い場所がある。しかし、大隈町あたりで40~50mあり、多くの丘陵は覆っていたレスが流れたのか、かまぼこのような形が多い。台地があれば残っていようが、それがなかなか見当たらない。原田遺跡のある馬見の台地は、黄褐色のシルト層のような堆積層があったが無遺物であった。よく似た層が千手地区の九郎原にあったが、これも無遺物層であった。

 先日、本屋で何かの本を立ち読みしていたら、捏造事件以来、中期や前期旧石器を語ることすらタブーとなっているらしい。ところで、旧石器時代なる用語は、前期・中期・後期として使用されていたのが、今日、後期のみを取り扱って旧石器時代としているのは何故だろう。岩宿時代もなんだかピンとこないし、先土器時代や無土器時代、・・・プレ縄文、いやはや難しいものだ。なんとか、古い石器を出してもらえばいいのだが。韓国で古式の石器が続々発見されているようだが、九州の前に壱岐・対馬から発見されれば足跡が追えれるのだろうが。そういえば、原ノ辻からナウマン像の臼歯が出ていたがその方面の調査はどうなっているのだろうか。

 8月末から9月初頭にかけて、一丁五反遺跡で残暑厳しきおりにも関わらず、2週間の発掘調査を行った。中心は弥生中期中頃から後半で、方形プランの住居跡であった。期間が無く久々に唐鍬やスコップを使ったが、体がガタガタで時おり熱中症に近い日々が続いた。包含層が50cm前後と深く、その下に残りのよい竪穴住居跡、地下2m近くの作業で蒸し風呂状態だった。最も深い竪穴住居の床面より若干下層に轟式土器片が一片のみ出土、発掘区の南東隅には暗黄褐色の粘質土が堆積している。調査の最終日、その層を掘って見た。深さは30㎝前後で下層の花崗岩風化土になり、しかも、堆積の状況は、点在している。おそらく、窪みなどに堆積したためそのような状況がうかがえるのかと、スコで掘ると結構な粘質で絡みつく感じであるが、遺物は全く含まれていなかった。                  その後も竪穴住居の床面を掘り下げるなど時間の許す限り掘ったが縄文土器(後・晩期)の土器片が少量出土した。

 9月の連休2日目、再び表採に出かける。飯塚歴史資料館により須玖Ⅱ式の土器を観察、特に内側に湾曲させた口縁部や口唇のつくり、凹線の有無に注意する。立岩の土器棺しかなくその観察を行ったが、一丁五反のようなつくりとは異なっていた。その後、旧穂波出土の晩期の尖頭器が気になった。サヌカイト製で基部は円形に仕上げられており、長さは4cmほどだろうか、一度、観察したいものである。その後、表採に出かけた。行く先は縄文後期・晩期の遺跡として著名な、北古賀遺跡へ到着する。何度か訪れたが常に人がいてなかなか近づけなかった。いつも、地形を眺めるだけで引き返していたが、今回は幸いに人影なし。さっそく採集スタート、しかし、地面は耕作機械で耕され、その後雨が降っていないので、土は乾燥しきって小石すら露出していない状況である。

 これは、表面採集にとって最もいやな状況で、何度も雨に打たれていると、石は表面にむき出しとなり、浮いたような状態となる。その上、石が洗われ黒曜石やサヌカイトは比較的簡単に採集することが出来る。今回、残念だが耕したまま乾燥しているので、表面に現れていない。出来る限り畝をたてている畑を中心に回ったがようやくチップ1点を確認したに過ぎなかった。それより、畑に通じる軽トラック幅の道があり、そのへりに耕作中に出てきた石が捨ててあるのだが、ザット見ただけで4点ほどの打製石斧があった。そのままにしてきたが、さすがにその手の石器は多いようだ。

 ひょっとして旧石器が拾えるのはここだけかと考え行って見たが、まだまだ発見には至らないようだ。

 嘉穂盆地に旧石器を求めて何年になるだろう。見当をつけて行くのだがことごとく失敗に終わっている。過去の資料に明確な採集資料がないため、まさにゼロからの出発である。しかし、必ずあると信じてはいるが挫折を繰り返している。そんな時、藤森栄一、中村孝三郎両氏をはじめとして先達の本をくり返し読むのであるが、神子柴遺跡を発見した林 茂樹氏の件は勉強になる。見出しは「執拗であること」「伊那の石槍」「日本一の石槍-神子柴型石槍の発見」と順を追ってその努力が報われていく経過がよくわかるのだが、特に、「執拗である」というのがいい。旧石器のかげすらなかった不毛の地である伊那谷に「きっと見つけ出してみせるという執拗な意欲にもえて郷里の伊那へ帰任していった。」その後に、執念のたまものとして遺跡発見につながる。

 私のこれまでの探し方は、嘉穂盆地の中央平野部に向って延びる丘陵や台地に見当付け、それらをぐるぐると横断するやり方だった。盆地はすり鉢のようになっていて、盆地の中央部にかなりの土砂を堆積させている。このことは、飯塚市役所建設に伴い、地下数メートルから弥生後期の土器が出土しているし、川床の数メートル下方から縄文前期を最古とする土器群が発見されていることを考慮すれば、周囲の高地はかなり侵食されていることが想像できる。縄文早期の遺跡のあり方からして標高50~60m以上のラインを目安に旧石器の位置を探ろうとしているが、侵食が激しいだけに多くが細い半島状の尾根になっていて、いずれも山林が覆う。畑が少なく採集条件が整っていないのが現状である。

 そこで、基本に立ち返る意味から、遠賀川に注ぎ込む支流を遡ることにした。まだ、計画段階であるが、「執拗であること」を基本とし最初は泉河内川を標的としよう。

  ※ ビッグニュース

 英彦山の山麓に瑪瑙の原石が産出するらしい。ほとんど知られていないと思われるその場所は、油木ダムの東に位置する山の尾根にあり、昭和20年前後の頃に採掘されていたらしい。地質条件からすると瑪瑙は火山の周辺で珪酸分が高熱の作用によってうまれるらしい。英彦山は火山でありその周辺域は怪しいことになる。

 その場所から採集された瑪瑙の細かな破片を観察することが出来た。位置的には、瑪瑙の採掘坑(横穴)が2基ほどあって、その下に散乱しているらしい。いわば採掘後のガラ捨て場といったところであろうか、破片はどれも厚みのあるチップ状で細かい。ただ、その中に気になるものが3点含まれていた。採掘は新しくほとんどの破片は、割れ口が鋭くキラキラ輝いているのだが、2点は風化が見受けられ、稜線も鈍くなっている。1点は、細石核としてよいほどの物である。もう一点は、ランダムな剥離ながらやはり石核状である。そして、1点のみであるが、まさに、細石刃としてよかろうと思われるものである。

 もちろん、採掘場のもので偶然の産物の可能性が高いが、調査する必要があろう。特に、添田町は石材に赤色や緑色のチャートや一部に瑪瑙も含まれている。赤色チャートとしているものも瑪瑙の可能性もあろう。時期を見て山に分け入るつもりである。

 ちなみに、採集された瑪瑙のほとんどが縞瑪瑙で赤と白のコントラストが美しい。その他に黄褐色に細い縞状のラインがいくつも入るもの、やや黄色を帯びた白色のものも若干見受けられる。また、別の場所で採集したものは明らかに珪化木で、内部は茶褐色である。

 英彦山周辺の熱による変質によって生じたものであろうが、原産地候補として小さな点を記したのかもしれない。添田でパラパラと出土するチャートといわれるものについては、瑪瑙の可能性もあり、鑑定が必要かとも思われる。今後の展開が楽しみである。

 陽明学ではないが、実行にうつすのが心情。11月21日、早速、添田町の油木ダムから瑪瑙の採掘場所に向った。やや迷いながら車で行ける場所まで行って、それから徒歩で進もうと思ったが、車を止めたすぐ近くから軽トラックがこちらに向けて進んできた。

 なんとか、止めて地図を片手に場所を確認しようとしたら、私が進むべき道は私有地だという。こんな地図では分からないとそっけないが、去ろうとする気持ちは無いらしい。よそ者への警戒心だろう。道自体が私有地と何度もくり返す。あげくには、この道は別の道というのだが、地形図を見てとっさに答えられる人はなかなかいない。結局、知らない人は、自分の土地を通行するべからずと排除された。そっけないがおそらく善人であろう。最後まで、私有地を繰り返し入って欲しくないとは一言も告げなかった。こちらが、私有地だから通行できないんですねといって、初めて首を縦に振った。その後、その人物は、やや酒臭い息で急勾配の山道を軽トラックで登っていった。「あんたの土地かい」と、とっさに思ったが時代だろうか、私が怪しかったのか、受け入れてもらえなかった。 瑪瑙の道は遠いかな。添田の岩本に相談しよう。

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筑豊考古学新書 2

筑豊考古学新書は、書き込みが出来ないので、2を記載する。

加与丁池の尖頭器とは、Photo この遺物である。さて、みなさんどう思われますか。

横断面を記載していないので判別が困難でしょうが、中央下部の断面形態は六角形です。関西、中部瀬戸内の皆様宜しく。

 多分、この機会に打製石鏃とこの尖頭器の分析をやりたいと願っています。

私は、牧歌的人間ではありませんが、弥生中期までの戦闘行為が北部九州で、「どんだけー」と考えています。九州考古学にも書きましたが、意外と局部的なのかな、筑紫野市は戦死者が多いようで、何でも戦いに負けた村とか、例えば、首狩の行為が北部九州に見られるようだといいますが、弥生後期以降の例はどうなのでしょう。古墳時代はどうでしょう。もし、なければ何故そのような儀礼的行為が途絶えたのでしょう。もし、あれば何故弥生の中期に首狩が必要だったのでしょう。首を敵方に落とされた人物は英雄だったのでしょうか、元英雄、首がなくなればただの骸、戦争では戦場で切られたとは限りませんね、囚われの身となって切り落とされたとも考えられますが、相手の陣地から運ぶ、または、戦場から運ぶ、物語は書けますが果してどうでしょう。

 立岩丘陵でもかつて倒立した土器棺から、頭骨が出土し石鏃等が出土していますが、戦闘相手の首でしょうか、それとも、相手から返された首でしょうか、おまけに、石鏃付きですから解釈が難しい。

 今、弥生の戦争ブームですかね、もう少し冷静に考えながら進めたほうがいいのかなと思います。そんな時、中部瀬戸内や畿内から土器や石器が来ていたら、面白いですね。もっと、資料を当ればけっこう見つかるかも知れませんね。

 12月1日、安斎正人さんの「前期旧石器再発掘」捏造事件その後 同成社2007を購入した。先日、韓国で数十万年前の石器類が確認されたニュースが掲載されていた。個人的には、中期、前期といった旧石器を発見する夢を中学生の頃から持ち続けている。

 ところが、嘉穂地域に来て縄文より古いものに確実な例として遭遇していない。立岩例は、中でも確実性が高いのだが、あれだけ以前から調査採集されているにもかかわらず単体の神子柴タイの石斧が残されてるだけである。旧穂波町の森原古墳の場合、トラピーズが出土したとの話であるが、現物や図、写真も残されていない。また、穂波の資料館に展示されている黒曜石製の物について、ナイフ形石器と認める人がいるが、刃潰しに相当する調整が表面から裏面に入れてあるのが1点、もう一点は裏面から表面であるが、質感や色合い、風化面の感じからして同じ種類と考え、明らかな縄文後・晩期のものと同様である。形状からして縄文後期あたりから見られる剥片鏃に係るものと鑑定した。

 このことは、何度もくり返してきたが、何とか早期前葉から草創期に入れそうな遺物をちらほら確認しているが、単体に過ぎない。そうなると、旧石器人が住めなかった理由を考えなければならないが、この方が不自然で困難である。また、25000/1の地図を購入したので、低位段丘をあたって見ようかとも思う。高いがだめなら低いに鞍替えか、後ろに狩猟場、近くに水場を備えたところがよろしいかな。早速、地図と記憶に残る風景とでさがしてみる。

 旧石器の諏訪間 順は同期の桜である。久しぶりの宴席で彼は、以前東北にいた私が九州で考古をやっていてよかったといった。お前が東北にいたら必ず捏造事件に巻き込まれていたよ。といっていたが、その通りである。芹沢長介先生に憧れていた私は、私は必ずそうなっていただろう。

 単純だが、人々が大陸から来れば九州か北海道が最も近い。例えばアメリカ大陸の場合、アラスカ経由カナダ、アメリカと入ってくる。そうすると、必ずアラスカの海岸部に古い遺跡があることになり、それを実践している考古学者たちがいる。オーストラリアに人々が来るとするなら、陸続きになった海岸線からその近辺で、やはり調査が行なわれている。単純だが理にかなっている。考えすぎずに感を研ぎすませた方がいいかな。

 嘉穂地域の歴史的役割の一つに、九州と中・四国を直線で結ぶ最短コースを考えている。 弥生の道は、成人用大型甕棺の分布や青銅器の流れから、立岩から旧頴田町、田川の糸田、方城と続くものと考えている。その先は行橋か苅田・・・。

 縄文は、英彦山越えのルートが有力か。周防灘から田川・嘉穂と結ぶルートも明らかになろうが、今は分からない。

安斎さんの本を読んでみたが、やはり、捏造事件の前に戻る。そして、相沢忠洋さんから始まるアマチュアと称される方々の発見に再度期待がかかる。夏井戸や不二山、権現山といった名称が並ぶ。大分県の丹生・早水台、紅村さんの加生沢・斉藤さんの星野と学生時代のなつかしい遺跡名が次々と記されている。最後に、様々な研究者への批判が掲載され、芹沢・紅村・斉藤各氏の名称がおわりに記され、「その姿を垣間見た人たちへ、感謝の気持ちをこめて・・・」と結ばれている。

 結局、早い話が遺跡を探すことである。アマチュアとプロとはいいたくないが、もう一度みんなで探しましょうよ。あると信じて探せばあるはず。ジャワ原人を発見したデュボアは、信念にしたがって単身ジャワに向った。北海道と九州の大陸に最も近い海岸線から探せばいいだけのこと。机に座っていてもこればかりは無理である。探せ探せ見つけるまで。案外、身近にあるのかもしれませんね。岩宿に登呂遺跡から駆けつけ、愛用の携帯スコップで自らローム層中より旧石器を掘り出した杉原先生、早水台、福井洞穴、星野、岩宿0などやはり自らトレンチに身をかがめた芹沢先生に代表されますが、自ら掘り出す姿勢こそが基本であります。行政に身を置いて調査をしていますが、気持ちだけは、先生方の背を追っています。森 貞次郎先生は「色々な先生方が、様々な事を言われるが、最後はあなた自身ですよ。あなたの考えを決めることが何よりも大事ですよ。」と昭和61年嘉穂町の原田遺跡で有文小銅鐸を発見し、おいでいただいた時にそうおっしゃいました。日頃から尊敬する藤田 等先生は、自ら実測し、トレースし、現場に出て発掘をされています。現場を訪れた私に、先生自ら現場の説明をしていただきました。

 前期旧石器の存在を信じる方々、是非、自らの手で掘り出してみては如何でしょう。机上もいいでしょうが、トレンチやグリッドの中においでください。

 12月5日 いいことがあった。探し物をしていたら、昭和59年の発掘調査痔の遺物で、特殊遺物と書かれたビニール袋を発見、開けてみると格子目の押型文土器片、X状にクロスする条痕文土器片、縦3段に連なる刺突文土器片で、何れも勘高遺跡からの出土品で、当時は理解できずに報告を怠っていた。また、榎町遺跡の特殊遺物として凹線文の大型甕口縁部もみつけたので、必ず資料紹介いたします。お楽しみに。

 12月8日 飯塚の資料館で久々の講演、益富城の話を2時間しました。城郭に興味がないので、聞いている人たちも退屈だったと思います。それより、勘高遺跡遺跡で出土していた縄文早期前葉の土器が問題ですよ。本来、鎌倉期の方形居館を調査しましたが、遺構と押型文(山形)が出土しました。しかし、今回のような古い土器群があったとは夢にも思いませんでした。確か、低位段丘というより微高地に近いくらいの場所で、黄色のシルト層が広がっていたように記憶します。今考えれば黄砂のようなものが堆積していたのかもしれません。同じような土質のものを原田遺跡の調査で確認しましたが、あの黄色い層が、草創期からそれ以前に遡る可能性のあるものかもしれません。案外、低い地形に古式のものがあるのかもしれませんね。高い位置ばかり見てきましたが、低位の黄砂が堆積したような場所が危ない。筑豊の皆さんがんばって見つけましょう。

 添田の岩本ちゃん、もう少し深く掘りましょうね。きっと出ますよ古いのが、みなさん、もう一押し下げて見ましょう。草創期の遺物が見たいですね。案外、出土しているかもしれませんよ、私みたいに昭和59年以来の再確認ですから、あきらめずにやりましょう。また、隆線を貼り付けたものが全て轟B式ではないことを考えましょう。怪しいのが必ずありますよ。そういう疑いの目で見ると意外と見えたりして、失敗はたくさんあります、私もたくさんありますが、考古学は間違っても訂正がききます。人の生命に係らないところがいいじゃありませんか、間違ってもいいからどんどん発表しましょう。草創期の押引文土器を見ましたが、ほんと土師器ですよ。薄くて焼きがやたらいいんですね。この地で、隆起線文、細隆起線文、微隆起線文、爪形文、多縄文という土器群をいつか見つけますよ。遠賀川流域の皆様ご協力ください。変だと思ったらご一報下さい、仕事をやめてでもうかがいます。てか。

 12月10日竹生島古墳周囲から、黒色磨研土器の胴部片らしきものが出土していた。また、弥生中期中頃の鋤形口縁壺の口縁部が出土していた。何とも、すごい複合遺跡である。

 12月20日竹生島古墳に木島さんに来てもらう。前方後円墳を戦国末期にズタズタにして山城に改修しているからである。その前に岡寺さんにも来ていただく。二人の見解はほぼ同じで安心した。16世紀後半期の城郭の可能性が高い。遺物は出ません。新しい時期をやる人たち、特に、城郭研究をやる方々に申し上げますが、遺構と遺物があっているとはいえませんよ。16世紀の後半、城郭がバンバン出る時期遺物がありませんね。益富城跡でも城塞群の各所を歩いても拾えません。木島君の話に耳を傾けてください。非常時の際に城郭で用いられていたものは木製の器類かも知れませんよ。貿易陶磁が出てきましたからこの時期の城郭です。まてよ、今回、薬研堀のそこから出土したのは鎌倉期の貿易陶磁と瓦、土師器類ですよ、しかし、築城時期は16世紀後半あたりですよ。

 考古学は編年を基本としますが、貿易陶磁器も伝世品や2号品3号品が後世にバンバン入ってくる。また、編年の時期の決定も城郭出土品でやると危ないし、集落、墳墓でもどうかな。先史時代でももめているのに、15・16世紀ましてや江戸時代の編年の基になるものが崩れたらどうするの。山城を掘ったり見たりしていると、必ず、宗教遺跡や古い城郭跡を改修した例が多いようです。竹生島も中世には高台寺という寺跡と前方後円墳をフルに活用してますから、たいがいそういう場所を選定して山城としているようで、当然、古い遺物が多く出ますよ。だからといって、明らかに遺構形態等が新しければ、再考すべきです。いわば複合遺跡ですよ。もう少し、考古と城屋が協力してやるなら、それに土器や陶磁器で編年を確立しているあなた、城郭云々で年代を決めていたら足元からすくわれるよ。もう一度、木島君の意見に耳を傾けましょう。彼のほうが考古学らしいよ。

 12月21日武末先生現場に来ていただく。弥生の話になり旧嘉穂町の榎町遺跡で、東部瀬戸内地域の凹線文を主とする土器片資料が得られている。前にも書いたがⅣ様式のⅢらしい。とすると中期の再末期になる。それをストレートに九州に持ってくると中期末に納まるのか、それとも、後期初頭の高三潴の古段階に相当するものと考えれば、内陸地域のおもしろい構図が現れる。立岩を中心とした中期後半期の嘉穂地域は、その終焉と同じくして遺跡数の激減がある。(福岡地方紙研究45号を参照)後期の初頭か前半かというところであるが、初頭とは高三潴の古、前半は新ということになろうか。いずれにせよそのあたりに大きな画期を見出す事は諸先輩方のいわれるとおり。福岡や糸島といった強大な国があるところは別とするが、そういう地域でも遺跡数の減少傾向が見られ、疫病説集住現象、私が書いた飢饉説など様々な解釈がある。

 私個人として立岩の絶頂期である中期後半から末あたりに、外来系土器を携えた人々が来るとすれば、交易による人々の移動とも取れるが、奴国の前線基地とも言われる当地域では、東部瀬戸内から入り込む隙はないかと考える。しからば、立岩衰退後の荒涼とした内陸部に高三潴古段階に相当するが、東部瀬戸内からの人々の到来は可能かと考える。くり返すが、榎町遺跡には中期と後期前半の遺物はまったくない。あるのは、東部瀬戸内系の外来土器のみ。また、山田の成竹遺跡の打製石鏃も気になる。

 戦国時代、大内、毛利、は海を越えて博多に直接行かず、常に内陸部を取り込もうとしたし、実際に取り込んでいる。博多の背後から忍び寄るのであろう。もし、畿内や東部瀬戸内勢力が入り込むとしたら、立岩衰退後の後期初頭から前半期を好機ととらえるのはよい作戦かと。いやいや、時代劇の見すぎかな。しかし、後期中頃から土器様式に大きな変化が現れ、竪穴住居にも片鱗がうかがえるとか、さてさて、面白くなってきた。

 先日から、森 貞次郎先生が「日本の考古学」に書かれたものを、また、読み出している。昭和49年発刊の2版で、中学校の時に購入したと思う。1九州というもので、一 九州の風土と弥生文化の地域性、二 縄文晩期の文化と弥生文化の形成、三 弥生前期における北部九州文化の発展と来る。二から三までは北部九州での弥生文化の形成と発展ということでこういう見出しが付けられよう。ところが、中期の段階で、通常なら須玖式土器や様々な大陸系の金属器等からその優位性を語るのかと思いきや、四 中期における近畿・東瀬戸内系文化の東南九州進出という見出しとなっている。そして、五に至るや、後期における北部九州文化の孤立ということになっている。

 さらに、内容を見ていくと前期末あたりから中期初頭にかけ近畿・東瀬戸内文化圏の第Ⅱ様式の影響が東部九州に現れ、西部瀬戸内にも九州系と第Ⅱ様式系の折衷様式が見られる。しかし、北部九州にまでは到達しない点を優位性として捉え、理由を朝鮮半島との交易の独占にあるとしている。一方、近畿・東瀬戸内文化圏の影響が強い東部九州に対しては九州と瀬戸内を結ぶ海上の交易は東瀬戸内人が主体性をもってくると記されている。この、前期末中期初頭に起こる現象の中で遠賀川流域はいかなる位置にあるのか、この頃、製作が開始される立岩の石庖丁、桂川の土師地区に集中的に搬入される今山系の磨製石斧、土器も概ね北部九州でいいと思われるが、特に、田川方面に高槻式の土器が入るように思える。嘉穂地域では若干見受ける程度である。また、高槻系の石斧も点々と見つかっており、香春町の五徳畑ヶ田遺跡では所謂高槻形石斧を製作しており、遺跡外への交易がうかがえる。しかし、田川地域を越えるのかどうかは、確証がない。やはり豊前とと筑前の境界は当時からあったのであろうか。

 中期の城ノ越から須玖式になると、ほぼ、広範囲に須玖式文化圏内に入っていくようで豊前や筑後、肥前など含めて強力な文化圏が登場する。しかし、そういう中にあって森先生は、あえて「東部九州文化圏の成立」と「南部九州への流入」という小見出しを出して概観されている。豊後から日向においては近畿・東瀬戸内文化圏の影響下に成立する土器文化圏がやがて鹿児島まで南下するという。

 中期の土器について遠賀川以西と以東という形で明確に区分しながら、須玖式土器の分布圏の中でも、異なる特徴を明示した武末さんは、以東と以西との互いの影響を考慮し、特に、須玖Ⅱ式の段階では、以東地域の土器の影響が、以西地域に浸透し、ついには、「土器を変化させる力は、須玖Ⅱ式以降、瀬戸内地方との接触で新たな器形を生みだしていく以東地域がしだいに強くなり以西地域を凌駕していくとみられる。」と記している。例えば、甕棺の多重突帯はおそらく嘉穂地域で生まれたと思われるが、その影響が以西地域にも少ない数であるが見られる。門田の甕棺もそれにあたるのかも知れない。

 以東地域からの流れの背後には、近畿・東瀬戸内との関係が考えられる。そのような流れの中で、北部九州で起こる後期の初め頃の遺跡数の極端な減少傾向は、須玖式文化圏の弱体化の現れであり、踏み込めなかった北部九州の以東地域に近畿・東瀬戸内系の文化が直接足がかりを求めたもの、それが、東部瀬戸内第Ⅳ様式のⅢの土器が単独出土した背景かと考える。

 ちなみに、その足がかりは後期を通じて残り、やがて、古式土師器に急激に変化する要因の一つとなったのではないか、榎町遺跡に隣接する穴江・塚田遺跡では、井上さんが方形居館(庄内の新か布留の古)跡を検出している。いわば、嘉穂地域における畿内文化の拠点ともいえる遺跡である。

 以前から旧嘉穂町では、豊前系統の土器の存在が知られている。井上さんも指摘しているが、特に、後期後半から終末にかけて多く見られるようである。そのような中で、原田遺跡から出土した竪穴住居内の一括とおぼしき土器群について、平底の長頚壺を中心としながら瀬戸内から豊前に見られる口縁端部が内側に屈曲する高坏が伴うもので、下大隈式の古段階と思われる。そのあたりから盛んに豊前方面の土器がよく見られる。後期後半から終末でも原田の石棺に伴った高坏などは、北九州の高島遺跡のものとよく似ている。井上さんは、よく豊前ルートの話をしていた。時期的には、後期後半期頃からと話していたが、東部瀬戸内第Ⅳ様式のⅢあたりまで行くかな。嘉穂地域の甕棺をまとめた際に、嘉穂盆地の立岩から頴田町を通り、田川盆地の糸田・方城に抜けるルートがあってそこに、大型甕棺が分布している。問題はその先であるが、甕棺では追えないようである。ひよっとして、青銅製の武器ではどうだろうか。特に、糸田に集中して出土しており、興味を覚える。

 12月13日 久々に飯塚歴史資料館に行く。昭和59年4月に文化財に就職して以来、初めて入館料を支払って入ってみた。筑豊での考古学をやる上において、そこは自分の研究の原点であり、課題の発見、整理とともに、何度も立ち返り自分自身を取り戻す場でもある。合併直前、それまで溜っていた難題・課題が一気に噴出し、その整理に1年以上をついやした。地域住民とのトラブルを何とか解決して合併に臨んだ。私は文化財を離れ中央公民館へと異動し、それまでのトラブルからようやく抜け出せたという安堵感があった。その夏頃から、眠れない・食欲がない・心と体が石のように重く、考古学の本すら読む気がなくなった。早速、心療内科で診察してもらう。「鬱」との診断、それから現在に至るまで月に1度の病院通い。

 去年の8月に異動し文化財に戻ったが、1市3町の文化財を2人でやるのはしんどいもので、49歳になって事務屋の仕事は、ほぼ初めてのことであり、何をやっているのかわからないままに過ごしている。今までが恵まれていたのであろうが、事実心と体のバランスが壊れかけている。そんな時、「自分に残るものは何か」と自問自答をくり返す。残ったものは、やはり、考古学しかない。この学問に入り35年が過ぎた。筑豊というフィールドに立って、22年間掘り続けたこの地は、様々な論題を提供してくれたし、この先もずっと私に語りかけてくれるだろう。

 「鬱」というものが、この先いつまで続くのか分からないが、仕事とに影響しているのか、自身がなれない仕事で、悪い方向に引っ張っているのかは分からないが、思うように物事を運べない。仕事に引っ張られ、自分を立て直すことが出来ない。こうなると、ますます疲れ辛くなる。4月16日から25年目に入るが、その前に2年間の会社等勤務があり26年間は働いている。まあ、年金の対象者にはなっているはずで、50を目前にもう一度人生の先を見つめなおす時期が来たと考えている。つまり、考古学は続けるが、役所仕事は見直す時期に来ているということで、飯塚の資料館を訪れたわけである。

 立岩の資料を見ているとふつふつと思いが湧いてくる。それは、仕事云々ではなく、自分の中にある弥生時代の筑豊の位置付けである。周防灘沿岸部は、近畿・瀬戸内との交易拠点として必ず注視される。さて、その次はと見ると福岡市域なのである。多くの研究者の方々に申し上げたいのは、内陸を抜きにして考えて欲しくないこと。周防灘沿岸より入り込む近畿・瀬戸内文化は、海沿いに福岡市域へと入ったと考えていらっしゃる方々、その場合もあろうが、むしろ、筑豊を抜ける直線ルートは、早くて安全、この上ないルートである。福岡市域・糸島等と近畿・瀬戸内を結ぶラインがよく設定されているが、なかなか、筑豊の中身まで示されないものが多い。東西文化の交流は、直接というよりも間接的に村々あるいは地域を介して結ばれるものと考える。甕棺もそうであり、決して一足飛びに入るものではなく、波紋のように広がっており、様々な文化にも応用出来るものと考えている。

 そんなことを思いながら、立岩の出土遺物を見ていた。そこで、新たに思いついたのが堀田遺跡の甕棺出土状況である。何かピント来るものを感じたので検証したいと思う。話は戻るが、突然、職場を去ることも視野に入れている。実際に発掘しながら材料集めをし、また、論文や研究ノート、資料紹介などしていけるのが自分にとっては幸福なのだと思っている。ついでに言うと、ローンもないし、子どもの学費もそこそこあるし、後はどこで決断するかである。まずは、心と体を1番に考えたいものである。

 以上は、ささやきである。また、路線をもどすとしよう。

 ショック、「立岩遺蹟」のなかに、甕棺の深度が記していない。実は、展示室に堀田遺跡のモケイがあり甕棺の平面的な位置関係と同時に、埋葬の深さの差がわかるようになっている。そこで、ふと思ったのが深さと甕棺型式に関連があるんじゃないかと、今まで、平面的に捉えていたが、立面的な関係からアプローチを考えたわけだけど、報告書にないとすれば、直接、飯塚の資料館で調べるよりないかな。春成さんが以前堀田の甕棺墓群で書かれていたが、平面的に2群が存在すると書かれていたように記憶する。これを平面と立面と編年を絡ませるとどうなるか、これは私の思いつきで危険ですから試みないように、ただ、モケイを見ていて須玖式は浅くそれ以降は深くなるなあーという思いつきに過ぎません。あしからず。

 しかーし、墳墓群を平面と立面の二方向からつまり三次元的に、映像化しながら観察するとどうだろう。もちろん、型式ごとに色分けをしておいて古式のものから新式まで造営される状況を鳥瞰図みたいに見ていけば、墳墓群の実態によりアプローチできないだろうか。例えば、立岩の須玖式段階は浅いのであるが、立岩式になるとかなり深くなる。あくまでも想像であるが、須玖式段階では2~3基程度の甕棺墓であり、自然地形をそのままの形で利用し埋葬するのだが、相対的に深さ自体は立岩式との差はあまりなかったと考える。しかし、立岩式の時期になると一気に14基もの甕棺が埋葬され、しかも、副葬品から王族クラスのものが占めている。その際に、選定地を整地したのではないだろうか、発掘では明らかになっていないが、特別の墓域として選定し、平坦あるいは段状といった人工地形とした可能性はないだろうか。当然、墳丘墓として存在してもいいのだが何の証拠もない。ただし、丘陵を平坦化させた結果、古くに埋まっていた須玖式は地表近くとなり、新たに掘り込まれた立て岩式は、本来の深さに近い状況となる。

 鎌田原遺跡では、当初より墳丘墓として存在したのではなく、最初に墓域の選定が行なわれ、中心主体となる木槨墓造営にさいして墳丘墓の形状を整えていったと考えている。

このあたりの切り口から立岩の堀田を考えて見たい。

 次に、鎌田原遺跡の調査と整理を行ないながら、徐々に甕棺墓の地位の向上の様相が垣間見られた。当初は大型木棺や木槨墓が中心主体であったが、中頃あたりから甕棺が取って代わるようになり、後半期においては、甕棺墓のみの構成に変化した。この状況から立岩の堀田はもちろん早良の吉武・高木や鳥栖のうーん遺跡名は忘れたが弥生墳墓群も同様に考えている。この関係が地域を越えて見られるのであれば、甕棺墓の優位性の問題や発信源、そもそも、大型木棺や木槨墓の交代劇があってはじめて甕棺優位の考えが生まれ、弥生中期後半~末の王墓が甕棺を使用することになったとしたら、中期前半から中頃に大きな埋葬様式に対する思想転換期が訪れたものと考える。その選択はどうなされたのかその辺を探ってみたいと思うが、みなさんどうかな。

 新C14で出されている年代から、鎌田原遺跡の木槨墓を検討するとどうなるのか、調べてみよう。

 

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考古少年回顧録 図版編

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蒲田池 

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筑豊考古学新書

               考古学中年野郎 ただ今参上!

                                             福島 日出海

 考古少年はいつしか中年となり、おなかは出っ張り、髪薄く、老眼のおやじと変化していく。しかし、夢だけは相も変らず持ち続けているのだか、なにせ、仕事と家庭を抱える身、それに、実行力が伴わないと来ているから夢と現実は、平行線?いや徐々に広がっているのである。 夢とは、旧石器人骨を発見すること、後期旧石器時代以前の石器を探すことにある。

 幸い、居住環境が恵まれており、やや離れているが石灰岩地帯が広がっているし、南側には火山からの噴出物で形成された彦山周辺の凝灰岩地帯がある。何れも洞窟や岩陰が点在している事にはちがいなく、条件は揃っている。あとは、中年の力を発揮すれば 良いのであるが、中々にして仕事が忙しく、休みの日はぐったりとして、一日を過ごすのだ。そんな時、藤森栄一や中村孝三郎、帝釈峡などの古い本を取り出して読むのだが、想いばかりが先行し、それに体が追いつかない。

 ただ、考古少年期より進んでいる点は、自転車が自動車となり、行動範囲が格段に広がったこと、それと、お金があるので、 先ずは、地図と地質関連のガイドブックを購入する。また、図書館で市町村史をめくっての情報収集をすることもスムーズとなった。行動力のなさと老眼、出ッ腹と薄毛をカバーしているかな?

 実は、少年時代に比べ大きく欠けてしまった点は、「無心」、「粘り」、なんとしても見つけようという「意志の固さ」と分析している。熱さ寒さが気になるようでは、まだまだ、到達は出来そうにない。

 しかし、ここは弱くなった歯を食いしばりつつフィールドに出よう。私の決戦の場は野外にあるのだ。

1 赤色チャートを求めて

 田川郡添田町から、縄文時代の遺跡が次々と検出されている事はご存知であろう。縄文早期の落し穴や後期の大珠が発見されたといて、報道機関でも取り上げられている。おおよそ、田川地域を流れ下る川は、今川、彦山川、中元寺川の3本に集約され、その何れもが、英彦山系の山並に源流を求めることが出来る。

 その中で、特に目を引くのが今川上流域の縄文遺跡群を中心に見られる。赤色の原材料から製作される石器群である。後遺跡では、明らかにその石材を利用した石器製作が行なわれたようで、不定形ではあるが多量の剥片が得られ、中には石器も出土している。さて、俗に赤色チャートと称される原材料が何処で得られたものか、極めて興味ある問題である。地元の方々は、「今川を遡ったら川の中に何ぼでもおちちょる。」ということらし。とすれば、にわかに頭に浮かぶのが英彦山系列の山々である。

 そこで、10月13日(土)にフィールド調査をすることとした。もちろん、老体に鞭打ってのことである。今川の上流には油木ダムがあり、その上流に点々と集落が存在する。集落近辺では、もちろん水稲耕作が行なわれていて、今川の蛇行に沿って張り出したわずかな平地を利用して、水田と集落が営まれている。縄文の遺跡は、わずかに張り出した平地に立地しており、かなり上流まで遺跡の確認がなされている。

 採集品では、縄文前期の曽畑あたり、調査では早期の押型文や撚糸文などが確認されている。おそらくは、早期の段階に併行すると思われる赤色チャートの原石が、川の中に落ちているというから、是非お目にかかりたいと朝から車を飛ばしてやって来た。油木ダムのかなり上流に当る所で、川に下りてみるとあたり一面が玄武岩や安山岩の巨礫群で驚いたが、水底に赤色の小石が点々と見える。「これや」と思い周囲を観察すると5cm程の大きさの赤色をした岩石が点々と落ちている。しかし、大きなものはなく、略その大きさに止まっている。

 さて、問題はこの川のどの辺りから採集できるかである。そこで、いきなり、最上流の英彦山からみやこに通じる道路まで直行した。そそり立つ岩肌から流れ落ちる沢のいくつかを見たが赤色の石は全くなかった。底から、再び川を下ることとし、なるべく、車が止めれる場所を探して川に入ることにした。200mほど下ると、木を伐採するための道が作られていた。そこから川に下りるとやはり全く赤色の石は見当たらない。しかし、開削された道を往復しながら、いつものクセで「下を向いて歩こう。何かが落ちてないかな」である。

 すると、粘板岩製の石器?と土器片を採集する。薄い器壁の表面に2条の沈線文、縄文かなと思う反面、何でこんなところでという地形の状況で、「信じらんない!」とでも表現しようか。もう少し下ると、広く木々が伐採されている山地形にしては平地が広い場所を見つける。そこも、伐採用に開削された道がありそれを下って川に到着する。やはり、赤色の石はない。

 しかし、帰り道の途中で縄文土器の破片を採集する。内外面とも条痕文で表面は縦方向、内面は横方向薄手で焼きかがよい。早期の条痕文系かとうれしくなる。また、一点やや大きめの土器片発見、これは、黒色で厚手、内外面横方向の条痕文で、多分、後期かな、細かな押圧剥離の施された漆黒の黒曜石片と姫島かなと思わせる白色の黒曜石片を採集する。

 さらに下り、ようやく1軒の家の脇をすり抜け、焼尾橋という文字が入った、歩数5歩で渡れる橋の下へと降りる。目の前を流れる清流、やはり巨大な火山岩の石畳が重なる中に赤い点が星のように見える。急いで、水の流れに近づくと、けっこう大きな赤色の石が落ちている。一見してシャモットである。この鑑定を吉井氏に頼もうと14日に訪ねるつもりにしている。ボタ山から工事のために運び込まれたシャモットであれば苦労は水の泡、1からやり直しとなる。

 ただ、素人目にはチャートではなく赤色の桂質頁岩に見える。例えば、第3紀の頁岩層が英彦山の噴火によって変成され熱作用により蒸し焼きになれば、シャモットと同じとになるのだが、先ずは鑑定。

 鑑定終了。結果はチャートではなく頁岩である。赤色は鉄分による着色の結果であり、内部まで赤色、あるいは青い部分がまだらに入る。おそらく、第三紀層、あるいは第四紀のはじめ頃の頁岩層ではないかということである。おそらく、河川両脇に見受けられる礫層中に混在していると考えられる。ただし、実際には確認できていないが可能性は高いと考えられる。後遺跡から出土した赤色のものはチャートであり、おそらく、古生層のもので基本的に異なるようである。

 今川上流の赤色頁岩(仮)が実際に石器の原材料として使用されているのか、興味あるところである。また、礫層中には円礫が多く、大形のものでも角が摩滅しているが、赤色頁岩は角ばったものが多く、焼尾橋付近のどこかに頁岩の層が確認される可能性がある。

 それでは、赤色チャートは何処ににあるのか、それが問題である。もしかすると山国川流域にあったものが、峠を越えて運び込まれたとも考えられる。いずれにしろ、英彦山連山とも言うべき山々から流れ出る川は縄文の道として重要な位置を占めるものと考えられる。「豊前田川地域と豊後地域を結ぶ縄文の道」としての認識を深めるべく、フィールドワークに望みたい。

 2 八木山東側山麓の丘陵地帯

 

ところで、穂波町発行の『穂波町誌』1969には、嘉穂郡穂波町椋本・森原遺跡調査の際に2次堆積層中から台形石器が出土したと記されているが、写真・図面等がなく実物も不明である。また、1939年岡崎 敬氏は「遠賀川上流の有紋弥生式遺跡地」『考古学雑誌』29-2の中で、福岡県立岩遺跡を中心とする遠賀川上流域の遺跡を取り上げて報告されており、その中に、弥生時代の磨製片刃石斧として紹介されているものがある。1990年横田義章氏は再検討の結果「神子柴型石斧」として紹介され、旧石器時代末期から縄文時代草創期に位置付けられたが、採集地点は不明である。これらは、当地域に縄文時代草創期あるいは旧石器時代の遺跡が存在する可能性を示唆するものの、資料的には不充分である。

 西横田遺跡は、八木山の東側山麓に発達する丘陵群の1つに相当するもので、遠賀川に向って長く延びる丘陵の先端部付近に位置しており、標高は約40mを測る。丘陵部全体が開発行為によってほとんど宅地化あるいは工場用地として現況を失っている。当遺跡も宅地造成と道路によって切通しとなっており、土層がはっきりと読み取れる状況にある。

 本来、当遺跡がのっている丘陵自体は基盤が第三紀層でその上に礫層を基底とする洪積世の堆積物が見られ、丘陵頂部における侵食作用の結果、軟弱な洪積世堆積物がかろうじて残されているのが当遺跡付近の形状であり、特に、切通しは地形図によれは゛南北に細長い舌状を呈していることが分かる。

 層位は明確に削って確認したわけではないが、表土下に明褐色土層があり、その下部がソフトローム的な漸移層から赤褐色のハードローム的な層(赤色土)に移る。この層は40cm以上あってその下に、薄いが明黄色のロームが見られる。その下部に鉄分の固まった様なペラペラな堆積物があり、その下は、白色からやや灰色がかった粘土層で明黄色と灰白色の層がASO-4と考えられる。

 層位は西から東に向って緩やかに傾斜しており、東側ほど赤色土の厚さは増しており観察しやすくなっていて、一部に落ち込みを確認している。その底部に張り付くように破砕礫が、また、崖面下よりチャートと思われる自然礫を採集している。

 落ち込み底部は、一部ASO-4を切り込んで作られているが、どの層から掘り込まれたかは定かでない。ただ、埋土は周囲の赤色土と全く同じもので、上層の明褐色土は一切含まれておらず、硬くしまっている。底部の西側立ち上がりの部分には、灰白色と明黄色のロームとが混じった埋土がブロック状に含まれていた。ただし、石器は未発見である。

 その丘陵部の東側に造成によって平地が作られ、畑となっている場所がある。そこには、チャートを含めた礫が多く含まれており、中には石器状のもの2点ほどを採集している。地形的には平坦であるが、すぐ南側に溜池があり、丘陵部が溜池に向って傾斜していたと考えられる。また、畑の北側は高くなっていて基盤に礫層が見られる。おそらく、八木山山腹に見られる呼野古生層に関係するチャートが含まれると思われ、原材料として確保出来る状況にある。

とにかく、石器の材料となるチャートが礫層中に発見できた事は次へとつながるし、赤土(レス?)に掘り込まれた遺構状のものの正体をつかまねば成らない。

地質的には、周囲に古生代の変成岩があり、中央には中生代の花崗岩が広がるが、南南東から北北西に延びる多くの断層が認められ、全体が遠賀川地溝帯の南端に位置することから、地盤の沈下に伴い、第三紀層が断層に沿いながら帯状に堆積する。その範囲は、山田市・嘉穂町から庄内町綱分と穂波町枝国の間くらいを通り飯塚の白旗山、目尾当りに延びている。主な断層は東側より高倉・岩崎・平恒とあり、主要河川は断層に沿って流れ庄内川・遠賀川(嘉麻川)・泉河内川がそれぞれ対応しており、穂波川も名称は分らないが桂川あたりから北に延びる断層に沿って流れている。

断層の見られる地域は、平野部と丘陵あるいは低山地との比高差が高く、平野部から突然に切り立つ山といった状況である。例えば岩崎断層が走る嘉穂町から碓井町、稲築町にかけて、南北に長く延びる大隈の平野部は、盆地内でもかなりの面積をもつ。東西の両脇には第三紀層の低山地が走り、断層が走る東側では桑野から大隈町にかけて100m以上の比高差があり、開析の進んだ牛隈から稲築町あたりで30mに達する。西側は比較的開析が進むものの30m近くの比高差が続き、千手川と遠賀川合流点の谷頭に低台地が存在する。また、遠賀川と山田川の合流点から北側に形成された稲築町から飯塚市上三緒付近の平野でも、大隈付近と同様で比高差のある丘陵地が平野部の両側に延びている。その下流に位置するが、遠賀川と穂波川の合流する付近の東側には、立岩の花崗岩からなる丘陵地が弓なりに西側へ張り出しており、開析が進んだ地形は河川に向い小さな丘陵が数多く並ぶ。

一方、穂波川流域の西部は断層が見られず、三郡山から八木山方面にかけての山麓は花崗岩地帯で、小河川による開析谷の発達が著しく、穂波川に向い枝状に丘陵が延びている。また、河川の流域である筑穂町の元吉から長尾、北古賀から桂川町の豆田、穂波町の高田といった地域には、下流に向い細長く延びる丘陵地が形成され、その間には小平野が発達し、遠賀川流域とはやや異なる地形である。

遠賀川流域は、南北に走る断層と第三紀層の発達によって河川による侵食は進むが、沖積地から直接切り立った低山地との組合せが目立ち、低平な丘陵地があまり見受けられない。一方、穂波川流域は風化が進みやすい花崗岩地帯が広がり、開析谷が発達するため小河川が多く、低平で細長い丘陵地が目立っている。特に、桂川町土師から筑穂町北古賀、大分付近と飯塚市弁分から大日寺、伊川から建花寺付近に集中して見られる。それら、低丘陵地には花崗岩の風化土が広く見られ、その上部を赤色の洪積層が覆っている。場所によっては厚い薄いがあり、堆積時の条件の差か、堆積後の風化の度合いかは明確ではない。

 堆積している層は、レスと呼ばれるものなのか、粕屋郡辺りで見かける真っ赤な層とは異なり、黄色気味である。そうなれば洪積世の堆積であろうから、旧石器を含む包含層の発見も可能である。ちなみに、旧筑穂町役場付近から北古賀に延びる丘陵は、ASO4その上にレスの堆積が見られる。ちょうど桂川から筑穂中学校へ向う途中の左手に造成地があり、以前ははっきり見ることが出来た。現在は、その反対側の高所に小さな砂防施設が出来ているが、切り通し状と成っていてはっきり分かる。近く、行くつもりである。

3 ついに発見か?

 嘉麻市碓井地区の竹生島古墳の発掘現場で、桂質、あるいはチャートか判断しかねるが、厚手の剥片が出土した。石材の質と視力が落ちたせいでリングやフィッシャーが見えずらいのだが、色調は暗灰色でいかにも硬そうである。さて、層位的確認は今から現場に向うが、縄文の古いところ以前と予測している。出来れば草創期かそれ以前に遡ればいいのだが、とにかく、70mくらいの山の上というよりは独立丘陵で、弥生中期までの遺物は出土しているが、改めて見直す必要がある。早速出かける事とする。

 九州歴史資料館に行って、実物を観察してもらいコメントをもらったぞ。石材は桂質のもので、その可能性は高い。石器である。時期的には縄文の後期、しかし、土器。石器ともに何ら出土していない。とすると、縄文の古相か旧石器かである。地質的には、現在小山に見えるが、実は、高位段丘の独立丘で、下層部赤色層で礫を多く含むが、礫は軟質である。それから考えるに、基盤は第三紀層で基底礫層があり、地山層の仲原層辺りに匹敵する堆積かと考えている。そうなると、河川堆積であり、当時の標高の見当が付いてくる。その上に。ASO4あたりがのっている可能性は高い。

 旧筑穂町の筑穂中学校近くにし尿処理施設かな、そこを右に下ると板金か塗装工場があるが、その上に新たな露頭観察場がある。基底の礫層がありその上にASO4、レス、沖積世の堆積物あり。中位段丘かと思われる。土師器か弥生土器らしき遺物は見つかっているが、旧石器らしきものは今のところなし。観察にはいい所。

4 10月27日土曜 晴れ

 午後から再び英彦山に向うつもりである。どうも、川底に散乱する赤色頁岩にTOOLがありそうで、そんな気構えで行くと以外に拾えそうである。報告は今夜いたします。

 あぁー失敗だ。なんと、添田町今川上流の川底に散乱している赤色頁岩は、なんとシャモットであった。がっかり、体中の力が抜けてしまった。ようやく、原石の層を発見したかと思いきや、なんと、川岸の上にかつての道がありそこにシャモットを敷いていたことが判明した。 しかし、これで面白い展開を迎える結果となろう。

 添田の後遺跡で検出された赤色チャートは、大分方面から持ち込まれた可能性が高くなった。嘉穂地域では赤色チャート製の石器は検出されていない。田川の添田を中心に見られる程度ではないか、とすれば英彦山連邦を超えて人々が移り住んだ、あるいは交流があったと見て差し支えないないと考える。実際、今川流域は最上流部から点々と縄文遺跡が連なっており、田川地域と嘉穂地域の縄文遺跡の様相が異なる要因の一つか。

 嘉穂地域の旧石器遺跡に迫るには、高位、中位、下位それぞれの段丘を知り尽くす必要があろう。ことに、高位段丘となれば、ひょうこう100mの丘陵や独立丘を対象とする必要がありそうだ。ことに、碓井の竹生島神社地は高位段丘、旧筑穂町公民館から北古賀に延びる丘陵は中位か高位、その上にASO4がありレスが積もっている。ちなみに、丘陵でもマサの丘陵があり、礫層がなく直接レス状の土層があるが、極めて薄く所謂丘陵である。この際、徹底して段丘を見分けて古式の石器を探そう。

 それにしても、シャモットにだまされるとは、修行がたりないことを痛感している。

5 10月28日(日)晴れ 

 昨日は、英彦山から三時過ぎに帰宅、赤色頁岩は昭和のシャモットと判明し、痛む心を抑えつつ、車洗いに専念する。その時、ひらめいたのだが、嘉穂盆地内の地形を考えるに高位、中位、低位とそれぞれの段丘を標高で区切ることが可能ではないかと感じた。

 早速、下山正一先生の講義を思い出しながら、強い赤色でくさり礫、あるいは半ばくさった礫を含む基底礫の地形を探してみると、碓井の竹生島(50m)は、高位段丘である。筑穂町長尾から北古賀に延びる丘陵(56m)は、基底に黄褐色土に大量に変成岩や石英系の礫を含む基底礫があり、ASO4が確認される。

 嘉穂町の原田・鎌田原両遺跡は、ご存知であろう。発掘調査の後そこで見た光景は、原田の場合、花崗岩の風化土が基盤にあって、その上に礫層がのっており、河川の堆積物である事は間違いない。その上にシルト、レスとなり、その上に包含層がのり、表土へと続く。しかし、東に隣接する鎌田原の丘陵は、基盤が花崗岩の風化土でその上に礫層があり、その上に灰白色粘土層(ASO4)がのっていて、さらに礫層(原田の礫層と同じ)があって、レス?、包含層、表土の順であった。鎌田原の甕棺墓群は、礫層の中に掘り込まれており、弥生の包含層が見られた。原田にも鎌田原にも縄文がない。不思議である。特に、原田の台地は何ヶ所も掘ってはいたが、不思議と縄文に出会っていない。ところが、屏川の西側には縄文早期から晩期に至る遺物が点々と出土しているのには驚く。しかも、椎木本村では縄文後期後半の住居跡さえ検出されているのである。

 田川の添田に行くと縄文早期から晩期に至る遺跡が、点在しているのだが、何れも、原田のような低平な台地ではなく、蛇行する川に突き出た丘陵や段丘、微高地に立地しており、猫の額と言っていいほどの場所が多い。原田遺跡は馬見台地上に位置するが、居住の切っ掛けは、水稲耕作で必要不可欠な水路づくりがあって、初めて居住可能となったのではないか。縄文人には嫌われても弥生人には好まれる地形があるように思われる。

6 10月30日(月)

 今日も現場に足を運ぶつもりでいる。古墳ではなく高位段丘に潜む桂質岩でつくられた石器を求めてみる。結果は、夜に書こう。

 ここから先は、見たこと、感じたこと、思ったこと、支離滅裂に書いていくから、読む側の立場に立たないものとして受け止めてください。

 11月1日の午後、竹生島の現場から黒曜石の原石出土。時期不明。弥生中期時が出ているので注意だが、まだ、縄文土器は出土していない。桂質岩?でつくられた石器の次に出てきた。色は漆黒、自然面に白色の不純物が入る。全体に摩滅しており、水和層は厚い。形状は逆三角形で角が丸くなり、底辺あるいは上面部中央を一打剥離、しかし、両端には届かず自然面が残る。しかし、到達した剥離面から下方に三ヶ所ほど縦方向に剥離が入る。特に、真ん中の剥離は、1cm幅の長さ1.3㎝の剥片が剥がれたであろう。

 大きさは、上面の長さ3㎝、幅1.7cm、高さ1.5cmの小さな原石である。見た感じ、腰岳に見えるが、どうだろう。白い流紋岩質か何か分からないが、細長く入っている。7㎜×3㎜くらいのものが大きい。ちなみに、剥離面も古く、稜線がつぶれている。さてさて、面白くなってきた。黒曜石の原石、それも小形のものが入ってくる時期はいつ頃なんでしょうか。

 ここの地質であるが、くさり礫を多く含む真っ赤な層であるが、中に、全体にグレーで中に白い小さな粒状のパミスをちりばめたような礫を多く含んでいる。全ての礫がサクサク切れる赤土の礫層。そのパミスを含んだような礫の正体はなんだろう。ご教示願いたい。

 すぐ隣には琴平山という玄武岩の火山があるのだが、まさか、玄武岩がくさってサクサク切れるわけはないだろうし、昔、関東で発掘していた頃に埼玉で江戸期の浅間山噴火のパミス層を見たが、よく似ている。最も、関東では3㎝くらいの厚さだったかな。竹生島の上から出るのは相当に厚い物である。密かに、琴平の玄武岩がくさったものかと思う次第である。

 古墳の周溝か戦国期の堀跡に溜っている土も真っ赤で、鳥栖ロームが入っているのかわからない。

 旧穂波町の忠隈古墳がのっている丘陵は、標高60mで竹生島に近い標高である。古墳の下には礫層がむき出しになっていて、緑色の変成岩の円礫が大量に入っている。古墳の葺石にその石材を使用しているが、やはり、河川堆積物である。

 さて、嘉穂盆地の標高50~60mに見られる礫層は、ある程度まとまってくるのではないか、つまり、丘陵や独立丘陵として残存する中で、河川堆積物が見られるものは、高位か中位の河岸段丘の痕跡であり、旧石器の遺跡が存在する可能性を有しているのではないか。ちなみに、立岩丘陵のような花崗岩台地もあって複雑ではある。さて、何処から旧石器が出るのか楽しみである。1ヶ所見つかれば、あとは考古少年に変えればすむこと。楽しみにしていてくれ。碓井の竹生島古墳のある高位段丘は最も近い存在である。古墳は担当者に任せ、私は時々訪れて石器を探そう。

 11月2日(金)

 ついに出てくれた石鏃、ガーンか?抉りの深いやつ、薄緑色の綺麗なチャート製、押圧剥離の細かさは、まるで磨きこんだようなツヤがある。先端に向って内湾気味、先端はかけているが鋭く尖っていたに違いない。さて、時代だが縄文早期の押型文、撚糸文、無文、刺突文、条痕文なのか、出来ればもう少し遡って欲しい。遠賀川下流域には、立派な有舌尖頭器があるし、立岩から出土したとされる神子柴型の石斧、土器が見つかるまではあきらめないよ。土器の顔を拝んだ時に判決が下される。出来ればミミズ腫れのような隆起線が蠢くもの、新月のような痕を連ねたもの、もっと欲を出すなら押し付けた縄文や絡状体の土器が見たいものである。ロトにあたるようなものかな。

 さて、嘉穂盆地をたいがい訪ね歩いたが、肝心の旧石器に出会ってない、当地には昭和59年に赴任以来、発掘を重ねながらあちらこちらと採集に出かけてみたのだが、出会っていない。旧穂波町の資料館にナイフ形石器らしきものがあるが、私には縄文にしか見えなかった。裏面からではなく表面から調整としての剥離が入っている。どなたでもいいが機会があったら実見していただきたい。ちなみに、遺跡は後・晩期の遺跡だったと記憶する。それに比べ、田川の例で桂川町の長谷川氏が資料紹介したやつは、プレハブにこもって個人の採集品を実測していた長谷川氏を訪ね石斧が印象的だった中に、ピッタシ見つけた一品がナイフ形石器であった。「これナイフやないと」というと「俺もなんかおかしいと思いよった。」と答えてくれたのは、ナイフ形石器として紹介してあったと思う。

 私が育った糟屋郡では面白いように旧石器が採集できたのだが、うーんわからん。旧小石原、田川、鞍手、糟屋と周囲にはぐるりとあるのにどうしてか、見つからん。何でやねん。ぼやくぞー。

 11月3日(土)

 今日は文化財めぐりのバスハイク、旧嘉穂町の千手小学校西側に高い丘陵が続いている。独立丘陵で千手氏が低地の方形居館をそのままに丘に上げてきた城郭跡である。方形に整えられた頂上に資財等を運ぶための取り付けの道がある。そこで、丘陵の断面が観察されるのだが、赤色土層のうえにレス?がのっている。標高110mで基盤は花崗岩の風化土その上に礫層があったと思うが、今度確認してみる。赤色の厚い層は鳥栖ローム(ASO4)と考えられる。石器が出ているわけではないが、要注意の場所である。

 下山田の安国寺跡は、奥の院というところがあるがそこに行く途中の右手には、僧房跡らしき平地が続く。奥の院は岩屋といわれ、足利尊氏が菊池軍に追われて隠れたという伝えのある場所である。行くと岩陰になっていたようで、後世に天井部が崩れ落ちたようである。長く信仰の対象となっていたので、石段なとで壊されているが、どこかにテラス部があったのではないか。西向きで住まいに適しているかどうかは不明だが、興味をそそられている。他にも嘉穂と山田の境をなす尾根は、岩肌が見られ、実際に窟のような場所もいくつか見受けられる。 そういえば、添田の岩本君が言っていたが、彦山にある窟のところで黒曜石が拾えるという。

 本日も西横田遺跡(飯塚市)に行って見た、やはり遺構のようであるが、遺物の露出はない。褐色あるいは黄褐色のレスに掘り込まれている事には間違いなさそうで、内部の土も上部層からの土は含まれてないように見える。

 突然ですか゜、長野県で出土したという中広?の銅戈が何本か出ていたが、綾杉ではなく斜格子文とはびっくりした。北部九州から出土する中期前半期に出土する薄刃でペラペラな銅戈に見られる斜格子文とはね。因果関係があるかも。

 11月7日(水)

 ついに、土器が出た。押型文だ、石鏃の形態もあわせると、柏原遺跡の第5層の上部かな。もう2歩踏み込みが足らないようだ。もう1点、赤褐色の土師器みたいな小片が1つやや厚いが、繊維を含んでいるようで怪しい。表面はナデ仕上げ、上部に刺突状の窪み2ヶ所、偶然のような気もする。はたして、刺突文までいけるのやら。

 図録を見ながら、繊維を含む土器はもう少し古くなるかも知れないと思いつつ、目の前の紙面に並ぶ押引文の土師器のような赤や茶の色調に目が奪われている。手元の土器の裏面に見られるカーブから、微妙に口縁部付近のものと考えられる。そうするとね二つの不揃いの穴が口縁部付近に位置するようになり、可能性は近づく。勝手な幻想に過ぎないかも知れないが、何とか草創期の壁をのり越えたいものである。

11月11日(日)

 平成17年11月26・27日に、第7回石器原産地研究会で今山玄武岩と各地域における弥生の石斧生産という内容で研究集会が開催され、私は嘉穂地域の様相について飛び入り参加のような形で報告したことがある。とりあえず、嘉穂地域の実情を調べながら、以前から思っていたのだが、嘉穂郡桂川町の土師地区に玄武岩製石斧が集中出土するのは何故かという疑問を訴えるべく、簡単な報告文とともに発表したのである。この点では、福大の武末氏が筑紫野市隈西小田地区での今山系石斧出土量における集落間格差を指摘し、有力と劣位という集団間の階層差が関係すると指摘したことをはじめ、小郡市の柏原氏が三国丘陵での様相を示しながら、今山系石斧が拠点的な集落に集中する点と近隣集落に多く見られ、、さらに周囲に至ると少なくなる傾向にあることを指摘し、拠点集落に集中的な供給が行なわれ、そこから周囲に分配されるというモデルケースを抽出した。

 以上のような状況が見られる中、嘉穂地域においては今山とほぼ同時期の玄武岩を噴出した小火山が3ヶ所にあり、中でも、旧碓井町の琴平山はすぐ近くに位置することから、必ずしも今山製ではなく自給自足的な製品の製作が土師地区で行なわれたのではないかと指摘した。その後、桂川の資料をお借りして佐賀大学で分析していただき、プレパラートによる比較から、今山のものという答えが導き出されたようである。これは、私個人への回答であり、正式発表は石器原産地研究会誌で公表される予定である。

 疑問が残る。私の知り合いの岩石専門家は、プレパラートの比較だけでは、何ともいえない状況があるという。つまり、嘉穂地域の3つの火山について全てのプレパラートが比較可能であるのかという点、それと、旧頴田町で出土した玄武岩製の礫器があるが、その質感や色調などどれをとっても今山のものに類似している。時期は縄文の早期末か後期と考えられるが、原産地は最も遺跡と近い旧庄内町の市室山とにらんでいる。どうであろうか?

 出来ればその玄武岩製の礫器を化学分析していただき、回答をいただければ面白くなると考えている。外見上の類似からすれば今山の石材は縄文早期末に嘉穂地域に到達していると考えられる。研究会の席上、福岡市の吉留氏の発表では、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期とまんべんなく石材として利用されているようであり、ひょっとすると、嘉穂地域へとも考えられるが、縄文の石材流通について新たな視野が広がる可能性はある。ただし、市室山あるいは旧山田市の摺鉢山の何れかの石材と判断されたなら、市室山・摺鉢山と今山の違いをプレパラートで明確にし、再度、桂川の石斧のそれと比較する必要を感じる。つまり、まだ私は100%今山産と信じているわけではない。

 そういえば、旧嘉穂町のアミダ遺跡の出土品に玄武岩製の石斧があったように記憶しており、探してみるつもりである。

 11月14日

 昨日、サヌカイト製の尖頭器?らしきものが出土しました。粗い加工でひょっとして別の器種になるかもしれないけど、一応、尖頭器でいいと思います。しかし、パティナが薄く、古式の感じはしません。簡単に実測して九歴の杉原氏にファクスしていますので、答えが聞けるかな。竹生島は、製品と原石が出土しただけで石器を加工した石屑や剥片がありません。本当に、一時的なキャンプ地だったのかもしれません。

 旧稲築の資料室で、物色していたらサヌカイトの稜線1条の石刃的な剥片を見つけました。その他にサヌカイトはパラパラありますが、パティナというか風化度合いが全く異なる1点です。縦長で下方を切断していますが打面の調整は判然としません。表面は一方が縦に剥離し、もう一方は、横から剥離しています。ただ、かなり風化が進んでいて、古式のものと言えるでしょう。ただし、縄文の初めか旧石器かはわかりませんが、可能性は捨てられません。

11月17日

 旧稲築町の吉成遺跡から採集された石刃状の剥片観察する。全体に風化が強くリングやフィッシャーがよく判別できない。下半部は断面三角形の頂点付近から剥離のラインが入っているようで、裁断している可能性が高い。長さ2cm、幅1.3~1.5㎝、最大厚7㎜である。問題は、打面であるがかなり風化していて調整痕が判然としないが、自然面ではないように思える。また、平坦であるが、微かにリング状の緩やかな高まりがうっすら見え、ひょっとすると、剥片を剥ぎ取る前に、かなり大きく打面調整をやっている可能性もあり、興味深い。個人的には、縄文以前の産物と考えている。

11月18日

 竹生島の現場に足を運び、つぶさに地面を観察するが、黒曜石等のチップすら採集できない。土器片は採集できるがはたして弥生か縄文か分からない。キャンプサイトとはこのようなものなのか、なんとか資料が欲しいが、そう簡単には手に入らないと思われる。けっこう険しい壁である。

 山田の成竹遺跡だったか、山田の市民ホールにある資料室に弥生の有茎石鏃と記されたものがある。けっこう長さもあり細身で少し望をかけているのだが、なんと、展示ケースの鍵がないと言う。とにかく、嘉穂地域の古い資料に当ってみよう。先人達が行なったように、万が一資料にぶつかれば道は開けると信じている。稲築の吉成遺跡の立地を考える必要がある。早速、当ってみようと思う。

11月21日

 山田の市民ホールにある資料室に弥生の有茎石鏃と記されたものがあるが、展示ケースの鍵がないとのことだったが、根性で鍵を発見、早速、取り出して観察、サヌカイト製の優美な有茎石鏃である。まてよ、縄文後期のアミダ遺跡をはじめ、結構、サヌカイト製の石器や剥片は見てきたが、それらより、風化が進んでいて、全体にやや白っぽい感じになっている。両面ともに整った押圧剥離で左右対称の美しい仕上がりである。これまで、筑豊で弥生の打製有茎石鏃を見た記憶がない。展示してある土器を見ると、弥生前期末から中期初頭くらいであろうか、もう一点は磨製の凹基式石鏃で、立岩で見る小豆色の凝灰岩製品である。

 よく似た石器を見つけたが、大阪府喜志遺跡の有茎石鏃で、古代史発掘4「稲作の始まり」講談社P140の231図dがそれである。しかし、大阪で九州の福岡ではない。ひょっとして、九州と関西との戦争で勝ち取った品、前期末だから違うやろう。となると、小形の有茎尖頭器で縄文草創期かな、一見の価値有り。展示品に黒曜石があるので、今度は手にとってみてみよう。また、展示してない品々が、展示室の戸棚の中に何ケースも眠っているので、期待していただこうか。スカで終わるかもね。早速、明日行ってみよう。

 ところで、福岡で弥生のサヌカイト製で前期末あたりの有茎石鏃、しかも、優美なものが出土していたらご教示ください。

Photo旧山田市成竹遺跡出土の有茎石鏃です。長さ4.5㎝最大幅1.3㎝土器資料、石器資料を本日ひっくり返してみましたが、弥生前期末~中期初頭と若干の中期後半の須玖Ⅱ式土器がありましたが、古いものは全くなく、弥生であると分かりました。しかし、北部九州にこのような打製石鏃があるのか、やはり、近畿を中心に中国、四国あたりにしかないように感じるのですが、如何でしょう。

 私は、搬入品の可能性を探りたく思います。旧嘉穂町榎町遺跡から兵庫あたりで見られる第Ⅳ様式のⅢに相当する系統の土器片が数点出土しています。榎町遺跡は、かつて九州歴史資料館で遺物整理の担当された岩瀬さんがかかりっきりで整理してくれました。はっきり申し上げて、中期の土器は1点もなく、縄文後期、弥生前期後半期と後期後半期、後は古墳時代、中世といった物でした。おそらく、立岩遺跡全盛期に当る時期と考えられますが、どう、解釈していいものか困っておりますが、この石鏃も含めて紹介したいと考えています。化学分析も考慮しておりますので、福岡市埋文センターの皆様よろしくお願いします。

ひょっとして、九州の石材でない場合は、面白くなりますが、こればかりはやってみらんとわかりません。福岡でもこんな打製石鏃はあるよとご存知の方、ご一報ください。頼るのはあなたですよ。そう、あなたですよ。

 もう一点、奇想天外かも知れないが、加与丁池で採集された尖頭器がある。考古少年回顧録の図版編に掲載しているが、長さ8.7㎝、幅1.9㎝、厚さ1cmで横剥ぎの素材面を両面に大きく残しており、中央から下半は断面形が6角形を呈している。福岡旧石器研究会の席上皆さんから見ていただいたら、むしろ、弥生の関西や中・四国に見られる尖頭器に似ているという感想をいただいた。実は、「日本の考古学」弥生時代の253ページに記載されている尖頭器とよく似ているという感じは、中学生の頃からあったが、尖頭器=旧石器という観念から全く結びついていなかった。佐原氏が紫雲出遺跡の報告で示した形態、禰宜田氏、平井典子氏が触れているように、中部瀬戸内のものに極めて近いものと考える。

 弥生中期後半から末頃に、先に提示した打製石鏃、当尖頭器、そして、榎町遺跡から出土した第Ⅳ様式のⅢに相当する系統の土器片など、今後、考えなければならない問題が潜んでいるものと直感している。

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