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2010年10月

日々「考古少年」

                                         

私は、中学生の多感な時期を、考古資料の採集についやした。その代り、勉強やクラブ、流行の音楽、アイドル、交換日記や男女交際などとは無縁で、何処か風変りな男子生徒であった。それでも、石器を追い求め、数人の仲間と徒党を組んでは、自転車を走らせた。

我々の縄張りは、福岡県糟屋郡篠栗町・久山町・粕屋町・須恵町の四町を基本に太宰府から福岡市の板付と広がり、果ては志賀島に到達した。そして、二年間ほど石器拾いに没頭した結果、千里眼的な遺跡発見の能力、つまり第六感が身についていた。

襟帯本の借用

 

 中学一年の冬、私は図書室の棚で『糟屋要録』という、襟帯の貴重本を見つけた。その頃、化石好きだった私は、郷土の本など無縁であったのだが、何を思ったのか、黒いハードカバーの本を手に取り、図版の写真を目で追っていた。そこには、印刷の具合で輪郭が潰れていたが、モノクロ写真の被写体は、糟屋郡内から採集された石器類であった。そのズラリと並んだ光景を目の当たりにして、私は思わず息を呑んだ。しかし、すぐに「石器に興味はない」とばかりに、急いで本を書棚に戻すと、別棚の化石図鑑を抜取った。だが、私の中で考古学の火種が、燻ぶり始めていた。

その後も、図書室に行く度に『糟屋要録』を手にしていたが、突然、背後から「なん見ようとなぁ、それ化石の本やなかろうが」と話しかけられた。少し慌てながら「ちょっと見よったったい」とその場を繕った。声の主は級友のデカさんで、その頃、二人は毎日のように、化石採集に出かけていた。この日はあいにくの雨で、たまたま、二人で図書室を訪れていたのだ。

中学一年の春、私は彼を化石の道に誘い込んだが、無常にも時は過ぎ、植物化石の情報を得た頃には、秋も深まっていた。ようやく、化石の場所を探し当て、崖にへばり付くようにして、採集に明け暮れていた。そんな矢先、誘った側の私が「化石から石器に興味が移ってしまった」とは、さすがに言い出せず、思わずごまかした次第である。

 当時、図書室には臨時の先生がいたが、偶然にも隣の家のおばちゃんだった。近所の好もあって「なんか、難しい本ば読みよんしゃぁねぇ」と声をかけられた。その言葉が変な自信となって、私の背中を押した。「この本は借りられるとですか」と聞いてみた。もちろん、貸出禁止は承知していたが、知合いの強みという希望があった。すると、先生は「特別に貸されるけん、こっちに持っておいで」と言ってくれ、何やらメモ書きをして貸出してくれた。やはり、持つべきものは隣人だと素直に喜んだ。

 その後も、本の借用を繰り返す私に、「その本ばっかり借りよんしゃあが、面白いとね」と先生が尋ねた。数日後、母が「息子さん、この頃、難しい本ば読みよんしゃぁねぇ」と声をかけられたそうだ。しかし「昔から変わっとんしゃったもんね」と一言付加えられたと話していた。

化石の虜

 そもそも、私が化石に興味を持ったのは、図書の先生宅と関係があった。隣には私より年上の三兄弟がいて、よく遊んでいたが、小学校一年生になった頃、その長男が遊びの最中に拾った石を見て、「これば見てん魚の化石やが」と言うと、私にもチラリと見せた。しかし、その直後から何度頼んでも、何故かその化石を見せてくれなくなった。私は、そのチラリズムとじらされた悔しさから、いつしか化石に興味を持つようになった。そして、、執拗に観察の機会を窺っていた。と言うのも、その化石とやらは拾った本人の家、つまり、隣の図書の先生宅に保管されていたのだ。

私は、その兄弟とよく遊んだが、時々、除け者にされては泣いていた。見かねた母が、長男に理由を訊ねた所、「小さいくせに俺達に命令するっちゃもん」と答えたそうだ。尤も、五つも年上の人に命令することは、それなりの制裁を受けるのが当然であった。そう言えば長男が「魚の化石だ」と言った時、私は「違うっちゃないと」と否定した記憶がある。長男は、それが頭に来たのか、化石を見せないという報復に転じたのである。

 見たいという欲求は、常に私の心に引っかかっていたが、機会は小学校三年の時に訪れた。長男は中学生となり一緒に遊ぶこともなくなったので、私より三つ年上だが、お人好しの次男に説得を試みた。さほど、時間もかからずに場所を聞き出せたが、驚いたことに彼が指差した所は、屋外で化石が松葉に半ば埋もれていた。

発見から二年、興味の対象外となった邪魔物は、既に放り出されていた。しかし、念願は叶ったわけで、手に取って舐めるように見回した。それは、白い石の肌に茶色の線が入っただけで、魚どころか化石でもなかった。私の執念は、ここに実ったのである。実は、この日のためにと母に頼んで、岩石鉱物図鑑を購入してもらい、特に、魚の化石を目に焼き付けて置いたのだった。

遠ざかる心

 

 私が、化石への興味を失った原因は、周囲に化石の採集場所がなかったことであろう。やはり、本物の化石を手にしないことには、興味も薄れてしまうものだ。ところが、中学一年の秋頃に、ある工事現場近くの崖で、木の葉の化石が採れる話を耳にした。同級生の情報は、経験上あまり信用出来ないが、今回は、一見の価値がありそうだと感じた。そして、その日の放課後には、デカさんと二人露頭の前に立っていた。

露出する地層は厚く、どの層に化石が含まれているのかが分からない。少なくとも、上層は土の層で化石は含まれない。しかし、その下に薄い層が幾重にも重なっているが、四、五㍍の高さで全く届かない。そこで、二人は転石の観察を始めると、硬い砂岩と軟らかな泥岩の、二種類が確認された。先に、砂岩をいくつか観察したが、化石は含まれていない。次に、板状に剥れた泥岩を観ると、まるで落葉が重なるように、岩肌に貼りついて見え、一目で木の葉の化石と分かった。

層位が分かればこっちのものだ、二人は崖の中腹に僅かな足場を設けるため、左右より駆け上り、踏みつけては駆け下りるという行為を繰り返し、ようやく、一人が崖面にへばり付ける程の、小さな平地を作った。早速、翌日からバールや金槌、タガネを持参して化石の層を発掘し始めた。

 だが、喜びも束の間、二人の秘密がクラスに広まるのは早かった。その結果、崖に何人もの同級生が張り付くこともあった。中でも、悔しかったのが、単独行動の初心者に大物を発見されたことである。しかも、私の家まで自転車の荷台に乗せ、わざわざ、見せに来たのである。彼の採集品とは、トンボの羽の化石で、何と、薄羽の翅脈までが明瞭に浮き出る感じで、図鑑から抜出たようだった。

私は絶句した。素人目にもトンボの羽に間違いなかった。後日、彼の家に数人で押しかけ、「トンボの化石は、凄い物やけん、学校に持って行った方がいいばい」と諭したが、本音は、彼の手から化石を引き離す魂胆だけに、その心の内を知ってか知らずか、彼は「いや、家に飾っとくけん」と一蹴した。間髪を入れずに断られ「俺も見つけちゃぁよ」と思っては見ても、引き上げるしかなかった。

冬も二月頃となったが、私は、トンボの化石を忘れられずにいた。そこで、思い切って尋ると、彼は笑顔を見せながら「乾燥してバラバラになったけん、捨てたばい」と軽く答えた。同時に、私の微かな希望も崩れ落ちた。

  

その一件を境に、私の気持ちに変化が生じ始めた。自分自身そのことを認めたくなかったが、心の揺らぎからであろうか、誰一人振り向きもしない、郷土本の『糟屋要録』を手に取ったという訳である。

 いざ蒲田池へ

 私が、図書室に通いだした頃、町の広報誌に郷土の歴史を題材とした、記事の連載が始まった。書き手は、安河内 乙さんという方で、元学校の先生と聞いた。最初は、町内の縄文時代の遺跡について記されていたが、その中の「蒲田池の鬼ヶ鼻から、石鏃などが採集されている」との一行に釘付けとなった。「蒲田池の鬼ヶ鼻とは何処なのか、行けば石鏃が拾えるのだろうか」と想像ばかりが膨らむものの、肝心な場所は全く分からず、時間ばかりが経過した。

 二年の進級時に、学級替えがあり級友のデカさんが抜け、代りにユウ、ナラ、ヒデヤスが入って来た。早速、石器採集の件が話題となり、日曜日に集合して、話題の蒲田池に行くこととなった。もちろん、デカさんも仲間の一人である。今回は、五人が三台の自転車に分乗するのだが、二人乗り二台と一人乗り一台という計算になる。当然、自転車の後輪脇には、二人乗り用のステップを付けていた。

 目指す場所は、高台に位置していたため坂道が急で、容易に辿り着けずに無言でペダルを踏んだ。「ここばい」というデカさんの大声に急に胸が高鳴った。その池は、道路脇に広がっているはずだが、まずは、堤防に上らないと中の様子が見えない。「せいの」で五人まとめて堤防の上に飛び上がった。

その全貌が見えたとたん、私は見た事もない広さと奥行きに驚いた。その溜池は底なし沼の如く、霞んだ空色の水を満面に湛え、波紋一つなく沈黙していた。「ありゃりゃ、水が満タンやが」とユウが言い放った。「しまった」と一瞬私は思った。少し濁り気味の水面は、周囲の木々をモノクロ写真のように写し出していた。こんな満水状態では誰も中に入れず、石器採集など全く無理な話であった。しばし、沈黙が続いた。

「今からどげんするなぁ」と言う、ナラの声に「太宰府に九州歴史資料館が出来とうけん、行ってみろうや」と答えた。まだ、朝の十時過ぎという時間帯に加え、テレビで資料館が紹介されて以来、一度は行って見たいという好奇心からの発言であった。

蒲田池から大宰府へ

 

蒲田池から、太宰府へ向かうには、県道太宰府―古賀線を走ることになる。門松の交差点から須恵町に向かうと、突然、急な登り坂となるが、道幅が狭い上に大型トラックの往来が激しい。自転車は、二人乗りで急坂とくればスピードは落ち、左右にふらついてしまう。その脇を大型トラックが追い越すのだから、相当な恐怖であった。おまけに、必ず鳴らされる甲高いクラクション、これは心臓に悪いし、追い越し様に浴びせかけられる黒煙は、思わず咳き込むほどに苦しかった。

 その後、しばらくは須恵町の平坦な道を走るが、宇美町の領域に入ると、その先はダラダラと登り坂が続く。きつく長い坂道である。それでも、目的地を目指してペダルをこぎ続けるしかない。斜め走りやジグザグ走行を試みながら、前進あるのみであった。途中、何度も路上に座り込み寝転びながら、それでも、何とか自転車を押して、坂の頂上に辿り着いた。ようやく、地獄から脱出すと、その先に下り坂が続くのが見えた。突然、今までの疲れが吹っ飛び、太宰府目がけて再び自転車にまたがった。

三台の自転車は、一斉に坂を下りながら猛スピードの競争を始めた。すぐに、ペダルは空回りして役には立たず、後は、全員が前傾姿勢を保ち、風の抵抗を抑えながら体を傾けて、幾つものカーブを通り抜けた。おそらく、スピードは六〇㎞近くに達したようで、後方の車が追いつけずにいた。それとも、車線を無視して走行する三台の自転車を、危険と判断したドライバーが、不用意な接近を避けたのかもしれない。ともあれ、バイクのような猛スピードによって、開いた口から流れ出たヨダレは、頬伝いに耳元に至る道筋を作った。我々は、意味不明の言葉を叫びながら、念願の太宰府入りを果たしたのであった。

天満宮参拝

 到着して間もなく「天満宮でなんするなぁ」とナラが言った。「そりゃあ、お参りくさ」と答えたが、およそ、神前とは思えない行動に出た。最初は、手洗いから始めたが、とにかく喉がカラカラな私達は、他人の目を気にしつつも、ウガイをしながら水を少しずつ飲み込んだ。だが、渇きを癒せるはずもなく、その内、ガブ飲みが始まった。我々は、計画を大幅に変更し、太宰府行きを決行した。当然、全員所持金はほとんどなく、ジュース一本を購入すると、うどん一杯を逃してしまう状況だった。

 我々は、身を清め喉の渇きを癒した所で参拝に移った。恐る恐る、参拝者の一番前に出て、まずは、全員で賽銭箱を覗き込み、「ものすぐ入っとうが、儲かろうやぁ」と口々に感想を述べた。次に、賽銭を取り出す人の横に立ち、投げるのを見計らって拍手を打った。他人のご利益を少しばかり頂戴するが、その代償に鈴をより大きな音で鳴らし、僅かなお返しをさせて頂いた。

  四角な丸天うどん

参拝終了後、我々は何か食べようと、辺りの店を物色し始めた。天満宮内は、昔からいくつも食事所があって選択が難しい。「食べて行きぃ、おいしかよ」とあちこちから、年季の入った呼び声が聞こえて来た。

 昼時は何処も客で溢れ、うどん一杯食べるのも大変で、空腹の辛さから、つい客のいない店を選んだ。その店に入ろうとすると、呼込みのおばちゃん達の態度が一変した。「ほう、そこにしたとね、あんまり美味しくないとにねぇ」という捨て台詞は、確実に店内に聞こえたが、おばちゃんは聞かぬふりをして、そそくさと先に入って行った。

店内に入ると、全員丸天うどんを注文し、席に着いて温めのお茶を飲んだ。実は、「丸天うどんが早かよ」と入店前に、おばちゃんにすり込まれた情報だった。「えっ」確かに早い、注文してから一、二分程度、しかも、前に並んだうどんには、半分から薄く削ぎ切りにされた角天がのっていた。「これ丸天やなくて、角天うどんやないと」と何人かが言ってはみたが、返事はなかった。

みんなで、うどんをすすり始めたが、だし汁が熱くないし、味も「なんこれ、まずいばい」との共通意見だった。角天を食べた時には、僅かな滑りと酸味を感じ、全員が顔を見合わせた。それでも、空腹には勝てず完食した。日頃の「出された物は残さず食べるように」という教育の賜物であった。

 お金を払う時、ユウが「おばしゃん、天ぷらが何か変やったばい」と言った。聞きつけた我々は、「こりゃいかん」と固まったまま呟いた。しかし、おばちゃんの顔は不思議と穏やかで「あんた達、何処から来たとねぇ。中学生やろう」と、妙に優しく接して来た。おまけに、「ちょっと、負けちゃあよ」と単価を落として来たのだ。ここは、素直に全員納得、腐りかけた天ぷらのことは忘れ、丁寧にお礼を述べてその店を出たが、思えば口封じであったのだろう。一応、腹痛を起こさないよう、再び菅原道真公に手を合わせた。

 九州歴史資料館は、天満宮から目と鼻の先にあり、完成して間もない頃と記憶している。高台の造成地奥に、五角形の真新しい建物があって、二階部分に大きな窓とシャンデリア風の照明が見えた。入場料が無料なのは有り難く、二階に展示室があって、最初に、大宰府政庁跡から出土した礫器が展示してあった。その他に、黒曜石やサヌカイト等の、旧石器が並べられていた記憶がある。陳列品は、どれも素晴らしいが、ガラス越しの石器や土器を見ても何かつまらない。やはり、この手で石器を拾うべきだと改めて決意した。

再び蒲田池へ

 

 中学二年の時、私は初めて『石器時代の日本』という、考古学の書籍を購入した。それに『糟屋要録』から抜き書きした遺跡の地名表と、『広報篠栗』の連載記事が主な情報源であった。一回目の蒲田池調査に出かけたのが春のこと、季節は秋となり再び蒲田池に向うことになった。

 今回、メンバーが入れ替わり、ヒデヤスが抜けトンチが加わった。特に、彼が考古学に興味を持っていたわけではなかったが、新メンバーを含む仲間五人は、再び蒲田池を訪れた。「おっ、見てん水が引いとうが」と誰かが叫んだ。春は満水だったが、今回は水面上に赤や黄色の土色が見える。全員が溜池内の石垣を斜めに下った。真直ぐ下りるのは滑る上に速度が出すぎて危険であり、横歩きや斜め歩行で慎重に下った。

 さて、石垣を下ったはいいが、広い池畔の何処に石器があり、どうしたら手に入るのか全く分からず、鬼ヶ鼻という名称だけがヒントであった。しかし、池の周囲はヤツデの葉のように入り組み、何本もの丘陵が水面に延びていて、全て鬼の鼻に見えてしまうのだ。

「とげするな」とデカさんが言った。私は「どこで拾えるか分らんばい」と即答した。すると「みんなで池の回りを一周しょうや」とトンチが言って話がまとまった。

 それから、全員が下を見ながら歩き始めたが、心配していた通り、ドンヨリとした空から小雨が落ちて来た。池の周囲を歩く場合、転倒に気を付ける事が一番で、そのまま水中に転落する危険がある。次に、入江の奥にあるヌカルミに足を取られないようにする。その対処法としては、足を逆ハの字に開き、足の裏全体に体重をかける。そして、歩幅を小さくして、チャップリンのように歩くのを、通称「チョコチョコ歩き」と言った。誰もが赤土の部分は中腰で地面をにらみ、ヌカルミはチョコチョコ歩きで進んで行った。

突然、ユウがねずみ色をした、硬い焼物のカケラを拾い「これはなんな」と質問した。私が「須恵器やないと」と答えると、「なんなそれ」と即、質問が返された。「古墳時代の焼物と思うばってん」と再び答えたが、それ以上の知識はなかった。「それよか、やっぱここはあるばい」というデカさんの声に「あるばい、あるばい」と全員が連呼した。

池の半分程も進んだろうか、須恵器のカケラ以外に何も見付からない。私は、その発見で「しめた」と思ったが、今度は「何にも拾えなかったら」という、不安を感じ始めていた。そして、入り組んだ入江の一つを通り抜けた時、対岸に長く突き出た平坦な部分が見え始めた。そこは、満水状態になると水没する高さで、奥にも平坦地が続いていた。

その時点で、収穫といえば須恵器のカケラ数点以外、全く拾えなかった。我々は対岸を目にしながら、最後の入り組んだ地形を踏破したが、シワシワと降り続く秋雨が、確実に頭から肩までを濡らした。しかし、何かに憑かれたように進軍する五人には、苦になるはずもなかった。ただ、ユウのめがねに雨の水滴が溜るようで、時々、シャツの裾で拭っていた。

黒曜石の発見

 

 先程、見えた平坦地に差しかかると、どうやら、ここが最後の突出部と分かった。ただ、今迄とは違い小石が多いことから、何かを予感させたのか、全員押し黙ったまま地面をにらみ、ゆっくりと進んだ。「ちょっと来ちゃってん、何かあったばい」とデカさんが叫んだ。いつもと違う甲高い声に、四方に散っていた全員が走り寄った。初めて見るそのカケラは、誰の目にも黒曜石そのものだった。漆黒に輝くガラスのようなそれは、雨に濡れ輝きを増していた。突然、誰かが小躍りを始めると、また誰かがスキップをした。

 騒ぎは突然止み、沈黙の時間が訪れた。全員が今まで以上に、腰を曲げながら進むのだが、黒曜石の魅力は、各人の個性を引き出した。ある者は、人の後ろは避け、脇に回って一歩後方を歩く。また、誰よりも先頭を歩きたがる者、見逃した獲物を探そうと、最後尾をジグザグに歩く者など、様々であった。そして、各所から「あったばい」「またあったばい」と歓喜の声が聞こえ始めた。しばらくすると、黒曜石を拾える者と拾えない者とが、はっきり分かれたが、決して、世の中平等ではないことを、改めて感じていた。

この採集は、ある困難を伴っていた。そこには石炭のカケラも落ちていて、黒曜石との区別が難しい。時々、採集品を持寄っては数を競うのだが、石炭やボタのカケラしか拾えない者がいた。そこで、何か区別する方法はないかと五人は思案し、ボタ山で遊んだ経験から、画期的な区分法を考え付いた。

 それは、単純な理屈で、黒曜石は硬く指先の力では割れないが、石炭やボタは割れてしまうのである。また、黒曜石を空に透かすと半透明なのに、石炭類は全く透けることがない。その違いを確認するため、ポケットの中から採集品を取り出した。すると、黒曜石のような割れ口だが、鼠色の不透明なカケラが数点含まれていた。それは、九州歴史資料館で見たサヌカイトで、黒曜石と同様に石器の材料とされた石であった。

次第に、ポケットの中がジャラジャラと、音を立てる程の数になった。しかし、雨は依然として止む気配がない。しかも、雨足が強くなり、ズボンの中にまで雨がしみ込むと、疲れが徐々に体を覆った。ユウが「もう帰ろうや」と言った。石炭しか拾っていないトンチは、「まだ探そうや」と反対した。最後に、デカさんが「今日はこれくらいで、またこうや」と言った途端、全員が同時に走り出した。石垣造りの堤防下に到着すると、私は後ろを振り返った。そこから、ほんの今まで採集していた場所を正面から見ると、大きな鼻の格好をしているのに気付いて、「みんな見ちゃってん、鼻の格好ばしとうが」と叫んだ。なんと、今まで石器を拾っていた場所が、最初に目指した鬼ヶ鼻であった。

最初の獲物

 

 私が、濡れねずみになって帰宅したのは、夕方の六時頃、夕食後そそくさと引き上げ、真新しい『石器時代の日本』を横に置いて、今日の採集物を点検した。黒曜石やサヌカイトを、一点ずつ丁寧に観察し、本の挿図と比べていた。そこに、父が現れ「それ石炭や」と尋ねたので、私は、心もち胸を張って「これが黒曜石たい」と答えた。父は、新聞紙に並べた物を手に取り「ほう、ガラスのごと透き通りようが」と感想を述べた。「和田の蒲田池で拾うたったい、縄文のとばい」と答えたが、父が驚くような石器は一つもなかった。

五人は、黒曜石に見事にはまり、土・日はもちろん、中間・期末テストで早く帰れる時こそ、チャンス到来とばかりに、勉強そっちのけで石器採集を試みた。また、雨天は雨量の多い時ほど、後に楽しみが増えた。それは地表面に流れる雨水が、石器や剥片を洗い出し、時には抉られた断面に、黒曜石が飛び出している場合もあり、採集量が増えた。

雨天の採集から数日後、我々は再び鬼ヶ鼻に立った。前回と違い快晴の空の下、石器が拾えそうな雰囲気が漂っていた。各人の採集方法は様々となり、私は鬼ヶ鼻の平坦な稜線から、水面近くまで歩いては戻る、ジグザグ歩き、中には水面と並行しながら後ろ向きに歩く者、デカさんに至っては、四つん這いになって採集をした。

最前列のユウが、「来ちゃんてん、矢じりやが」と呼んだ。その声に、残る四人が走り寄ると、抉りの入った立派な石鏃を持っていた。「すごかろうが、黒曜石の矢じりばい」と言うと、笑顔で「落しなんなよ」と一言付加え差し出した。私は、それを手のひらに乗せ観察したが、黒曜石製の完形石鏃で見事なものだった。そして、我々の最初の獲物となった。

突然、ユウが片手で拍子を取り、「石鏃、石鏃」とくり返しながら行進を始めた。みんなもそれに付き従うと、踊りの輪が出来た。その後、誰かが大物を発見した時には、必ず踊る祝いの儀式となった。

加與丁池で再挑戦

 

 蒲田池での採集は、正午近くまで続いたが、ユウ以外は石器を発見出来なかった。最初の石器は、私が発見するという夢が消え、石器採集の欲だけが残った。そこで、私は「粕屋町に加與丁池があって、石器が拾えるけん行ってみろうや」ときり出すと、「行ってもいいばい」とみんなが賛同した。「ばってん昼飯はどうするな」とトンチが言った。私は「みんないくらもっとうと」と懐具合を探ったが、どうやら、ラーメン代ぐらいはあるようだ。そこで、「昼はラーメンば食べてくさ、加與丁に行こうや。石器がゴロゴロしとうかもしれんばい」と誘い文句で気を引いた。それは、まんざら嘘でもなく、『糟屋要録』や『石器時代の日本』にその地名が掲載されており、拾える可能性は十分にあった。

ところが、私は加與丁池の場所を全く知らなかった。すると、デカさんとトンチが、「知っとうばい、魚釣りに行ったことがあるけん」と私に向かって、助け舟がやって来た。誰かが「加與丁、加與丁」と歌い出し、例の大合唱が始まった。さすがに、自転車だと踊れないが、蛇行運転でそれをやってのけ、ラーメン屋に急いだ。

 そのラーメン屋は、今でも人気の店だが、当時は替え玉が出来て、壁には一人で何十杯食べたという番付表が張られていた。その中に、中学校の先輩の名前を二人見つけた。「名前が書いちゃあぜ、ほんとかいな」と話しながら麺をすすったが、やはり美味しくてスープも全部飲み干した。

 ラーメン屋を後に、一路加與丁池に向った。国道を左に曲り踏切を渡って、登り坂を一気に上りきると池が見えた。「この池なあ」と私が叫ぶと、先頭のデカさんが「ちがうばい、ここは敷縄池て言うとばい」と答えた。「お前は地元の人間か」と、突っ込みたくなる程の知識であった。私は、満水の敷縄池を見て、春の頃満水だった蒲田池と、行き先の加與丁池がだぶってしまい、少し不安になった。

その時、デカさんが「着いたばい、見ちゃってん広かろうが」と指差した先を見ると、その光景に息を呑んだ。とにかく、広くて全体がよく見えないが、ただ、水がかなり引いて、水面上に突き出た低丘陵の地肌が、遠くに見えていた。この池は蒲田池の何倍の広さだろうか、果たして、この池の何処に行けば石器が拾えるのだろうかと、次なる問題が控えていた。蒲田池の地形は熟知していたが、ここではあちこちに鬼ヶ鼻のような低丘陵が見えていて、全く役に立たない。そこで、直感的に最も低い丘陵の横に降り立った。

 その選択は、見事に正解であった。そこは蒲田池とは異なり石炭は見えないが、赤土の上に石英の粗く白い砂が広がっていた。私は、すぐにハート形をした、グレーの石を発見した。それは、当時アンプルの先端を折り切る時に使った、ハート形のヤスリに似ていたが、摘み上げ手のひらに乗せると、間違いなく石鏃で、サヌカイト製の完形品だった。思わず「見つけた」と叫びたかったが、拾った場所を気付かれまいとして、少し移動をしてから「あった、石鏃があったばい」と叫んだ。みんなが駆け寄って来て、各々の手から手へと渡された。「すごいやないな、石鏃ばい」と全員が確認した。その後は例の踊りが始まったが、如何せん、ここは釣り客が多く、歌は小声で振りも小さなものとなった。

 ようやく、石鏃をポケットに入れ、上から何度もナデながら確認した。今度は、デカさんが手をあげ「あったが、来てんない」と叫んでいる。再び、みんなが走り寄ると、今度は、黒曜石の石鏃だが完形品ではない。しかし、周囲に小さなギザギザのある、特徴的なものであった。その後、私も黒曜石製の石鏃を拾って二個目となった。結局、この日は、五人中三人が石鏃を採集出来たが、トンチとナラは見つけられずにいた。否応なく時間は過ぎ、秋空が薄赤く染まり始めていた。

 夕日が地面を赤く照らし始めると、石器を探すのが難しくなる。それは石英の粒が赤く染められ影が出始めると、それまで、白砂の中に黒いカケラを探していたのが、今度は赤い世界に点々と黒い影が浮き出て見分けがつかなくなるのだ。

石鏃を拾って満足げな三人は、既に、家路に着こうと考えていた。しかし、獲物がない彼等は、「もう少し」と何度も繰返す。しばらくして、三人が口々に「もう帰るばい」と残酷な言葉を、二人に浴びせかけた。しかたなく、戻ってくる友人達に「次ぎは見つかるけん、またくればいいが」と慰めともつかない言葉をかけ、ようやく帰路に着いた。それが「今日の勝者は明日の敗者」という、先が読めない石器採集競争の始まりであった。

細石器の採集

 

 採集の回数が増える度に、目が慣れ石炭と黒曜石の区別が付き始めると、かなり離れた場所の物まで拾えるようになった。そのため、細石刃という幅一.五㎜、長さ一㎝程の石器も、採集の対象となった。学校で仲間とその話題に触れ、思わず踊り始めると、クラスの女子達が、怪訝そうな顔で見ていた。

季節は冬となったが、相変わらず蒲田池と加與丁池通いを続けていた。冬場はすぐに暗くなるので、急いで帰路に就くのだが、どうしても、ライトを照らして猛スピードで帰るのだが、いつも、自転車レースが繰り広げられた。ちなみに、仲間内で最も早いトンチは、その後、足を活かして競輪の選手となった。

 蒲田池では、細石核や細石刃を採集していたが、典型的な細石核にはお目にかかっていなかった。それはともかく、近視のため石器に縁遠かったトンチが、サヌカイト製石匙の完形品を発見したのだ。我々と同一行動ではどうしても先に拾われると、別行動を取るようになり、最初に発見したのが石匙であった。縄文の石匙は、最初の発見例となり、みんな大喜びだった。その後、トンチが何度か拾った石器の中に、もう一点石匙が含まれており、当然、彼は石匙のトンチとなった。

 そんなこともあって、鎌田池に足を運ぶ回数はさらに多くなった。そんなある日、今まで以上に池の水位が下がったことがあった。鬼ヶ鼻の先端近くの水面に近づくと、水底に黒い物が沈んでいた。石炭ではないようなので急いで拾い上げ、指先を使って付着した粘土を取り除いた。すると、楔形をした縦方向に稜線が並ぶ細石核が現れた。滴る水をズボンで拭いて再確認すると、典型的な細石核であることが分かった。私は「全員集合」と流行のテレビ番組の真似で呼び集めた。その後は、いつもの祝の踊りであった。

ようやく、手にした細石核を持ち帰って、早速、『日本の考古学』の九州地方を開いた。中でも、長崎県福井洞穴で日本最古の土器群と一緒に、出土した物によく似ており、その年代は放射性炭素の測定で、一万二千年程前と記されていた。その後、しばらくは最古の土器も拾えるのかと想像しながら、池畔の斜面を何度も往復したものだ。

前期旧石器発見か

 

 我々の石器採集は続き、採集地点もその数を増した。蒲田・加與丁両池に加え、古大間池や赤石池など行動範囲は広がり、採集品も旧石器が中心となっていた。加與丁池では、縄文の石鏃が拾える場所の先に、小高くなった丘陵がある。その辺りでは数にすると七、八点だが、立派なナイフ形石器の製品のみが採集出来た。石片やチップは拾えず、いつも不思議に思っていたが、おそらく、製品を持ち込んだ短期間の住まいと想像された。

 その頃になると、私には不思議な力がついて来た。あの辺りに石器が落ちていると思って行くと、実際に拾えるのである。しかし、失敗も当然あって、凄い発見だと舞い上がった時ほど、違った時の落胆は大きいのだ。

 当時、ナラの家には、高価な『ライフ』という本が全巻揃っていた。その中の「原始人」が借りたくて彼に聞くと、まだ父親の本らしかった。それでも、強引に借り出して毎日夢中で読んだものだ。その頃、偶然にもテレビでルイス・リーキー博士が、東アフリカでジンジャントロプスを発見する場面が映し出されていた。もちろん、博士は『ライフ』に登場する人物で、著名な人類学者であった。私は『石器時代の日本』を取り出し、前期旧石器と書かれた石器の写真を眺めながら、いつか、日本最古の石器の発見を夢見ていた。

 ある日、デカさんと二人で粕屋町の新大間池近くにある、丘陵の裾を歩いていた。今回は、池の対岸にある丘陵上に、古墳らしきものが見えたので確認に向かっていた。当時、二人の視力は共に二.〇で、第六感も備わって来ていたのか、自転車から数百㍍先の丘陵上にある、小高い墳丘が見えたのである。

二人は、手前の丘陵の裾を通過していたが、斜面の一部が削られ、石英のカケラが点在しているのを発見した。「もしかして」という直感が働き、頭を石器採集モードに切り替えると、視線の先に三角形をした石英の破片が落ちているのに気付いた。急いでそれを拾うと、『ライフ』の中で見た、ルバロアの尖頭器にそっくりだったので、「見てん、ルバロアやが」とデカさんに見せた。

 今度は、デカさんが拾って来た石英を見て、即座に「握斧やないと」と答え、手に握ってみた。なるほど、握る部分が造作されたように、しっくり馴染んだ。また、先端までのびた刃は美しく、両刃状で如何にも切れそうに見えた。私はその二点を持ち帰り、ライフの図と比較したが、ルバロアの尖頭器や、より古い時期のピックによく似ていた。ところが、刃の稜線が直線的ではあるが、それに直交する人工的な剥離痕が見当たらないのである。

 そこで、大分県早水台遺跡出土の石器写真と比べたりして、石器かどうかを確認しようと必死であった。また、石英系の石材は、早水台遺跡や中国の周口店出土の石器群に多く使用され、「加工の痕跡が見分けにくい」という特徴があるという。その記載を見て「これはいける」と密かに自信を持った。記憶では、しばらく所有していたが、後に、偽石器と分かり処分した。それは、不用意な比較や「石英製石器の加工痕は見分けにくい」という一文に惑わされ、加工痕がないという重要点を、故意に打ち消してしまった結果がこのざまである。思い込みは時として、眼を曇らせてしまうのである。

       

 

年代測定の実験

 粕屋町の古大間池は、大宰府―古賀線を挟んで新大間池と対になっている。それら両池を結ぶ大きな水路脇を伝って、古大間池に下りるのだが、その右手には滑石の露頭があった。しかし、滑石製玉類の製作遺跡があったが、あまり興味はなかった。むしろ、対岸の丘陵先端には、多くの弥生土器片が散乱していて、もっぱら、そこで採集を続けていた。

散乱する弥生土器は無視して、黒曜石やサヌカイトを探すのであるが、一面に桂化木が、砂利を敷き詰めたように広がっていて、採集には難しい場所であった。石鏃やナイフ形石器、台形石器を拾ったが旧石器の数は三点でそれ以上は拾えなかった。特に、お気に入りは、黒曜石製の大型石鏃(三角鏃)で、ペンダントにでもなりそうなものだった。しかし、中学校の文化祭に出品して盗難に遭ったが、それだけ、魅力的な品であったのだろう。

 また、この地点では赤土の断面に黒い土が入り込んでいる所があって、そこに、弥生土器が含まれていた。今なら、それが遺構の断面と分かるのだが、当時は、何だか分からず、そこから出てくる炭に興味が湧いた。幸いにして、二年の副担任は理科の先生だったので、頼み込んで理科実験室を使わせてもらうことになった。狙いは、炭素一四の年代測定を秘密裏に行う実験であった。

その原理は、全く理解出来なかったが、方法として、採集した炭をガスバーナーで灰にする。その際に、炭素一二は酸素と結びつき二酸化炭素となって空気中に放出され、より重い炭素一四が、残った燃えカスと考えた。そこで、その灰の質量を計り、炭の質量と灰の質量の差を比率とし、半減期を比率に合わせて計算し、年代を計ろうというものであった。我々は、昼休みになると鍵を借りて理科室で実験を繰り返した。最初、自分を天才と信じ、成功を疑わずに実見を繰り返し、例の仲間もついて来てくれた。

ある時、別の理科教師がやって来て「だまって理科室に入って何をやっとるんだ、ここは遊ぶ所じゃないぞ」と怒られたが、私は、持論を展開した。先生は「炭素一四とか一二とかよく調べてはいるが、その方面の事は解らない。しかし、おそらくその実験はダメだから諦めろと」言った。実は薄々気が付いていたが、灰の質量が軽すぎて上皿天秤では計れないし、灰が炭素一四のみで出来ているという証拠は何処にもなかった。

仲間は「あの先生、俺達の言よう事が分からんやったばい」と言ってくれたが、私自身が分からないのに、相手に伝わる話ではなかった。しかし、理科の先生が年代測定を知らなかった事は事実で、少し優越感を覚えた。理科室から帰る途中、みんな慰めてくれたが、中でも、ユウが応援してくれ「もっとたくさん炭を採って来たら、出来るっちゃないと」と諦めない。何度も「続けろうや」と言ってくれたが、結局、副担任からも怒られて、理科実験室の使用は禁止となった。

 発掘という名の盗掘

 

 石英の偽石器を拾った地点の先に丘陵があって、新大間池の対岸から見て、怪しいと思った場所である。早速、デカさんと急な斜面を駆け上がるが、途中タラの木の棘に何度も刺されながら頂上に到着すると、テーブル状の板石が露出していた。「これドルメンやなかろうか」と、唐突に言葉が口に出た。デカさんも「なんか凄いばい」と驚いた表情を見せた。「この石をはぐったら、何か出るばい。」と予想はしたが、二人ではどうしようもなかった。翌日、みんなに「凄い物ば見つけたが、ドルメンやなかろうか」と図書室の本を開いてドルメンの写真を見せた。

 その後の展開は速く、その日に総勢五名で山頂の石を見た。「ドルメンやが、石をはぐろうや」と盗掘案がまとった。五人で石をひっくり返そうとするがビクともしない。みんな周囲を探して、間伐材を運んで来た。「テコの原理を使こうたらいいが」と丸太を板石の隙間に差込み、石を置いて支点にし、「せーの」でぶら下がるのだが、浮く程度で持ち上がらない。その内、丸太が途中から折れ、その勢いでみんな地面に転がり落ちた。その後すぐに、みんなは別の間伐材を探すため四方に散った。

しばらくして、デカさんの声がした。全員集合すると、斜面に四角い板石が露出していたので、準備したスコップで掘り始めたが箱式石棺の板石に間違いなかった。誰かが扁平な板石を見て「あっペンペラーやが」と言うと、たちまち全員が「ペンペラ、ペンペラ」と繰返した。それは、呪文のようでもあり、更に奥にある板石を掘り出すと、「この下に本体が埋っとうばい」と土を掘り進めるが、自然と「ペンペラ」の言葉を唱えていた。

 ユウ、トンチ、ナラが頂上の板石の係、私とデカさんは、通称ペンペラーの下を掘り続けた。しかし、板石は二枚だけで何もなく、代わりに下から思わぬものが顔を出した。そっと周囲を掘ると須恵器が潰れた状態で次々と出て来る。全員が集まって来たので、「須恵器ばい」と出くる状態を見せた。「凄いやないな」と言うと、我先に穴の中に顔を突っ込むので、ちょっとした騒ぎになった。私は、石蓋の下から須恵器が出土するのに困惑していたが、頂上では「ペンペラ」の声がお経のように続いていた。

 我々は、山頂の石を、二日かけてひっくり返した。さて、その下から何が出るのか期待したが、石棺や甕棺ではなく四角な大石であった。その周囲もガッチリ組まれた大きな石ばかりで、みんな「まあいいたい、その石をはぐったら分かるけん」と再び挑戦した。ようやく石を転がすと、その下は水が溜まり、黒い土が入り込み、その下にも石の感触があった。極めつけは、ガラスのカケラとビニールが出て来たことだ。

 ついに、私は「これはドルメンやないばい。古墳の石室が壊されとうとばい」とぶちまけた。みんなの気力が見る見る失せ、それから、トボトボと周囲を歩くと、明らかに円墳と理解できた。それから、ダラダラと撤収し丘を下ったが、その途中、トンチとユウが「ドルメンやったら面白かったちゃがね」と言うと、ナラが「何しよとな、はよう行くばい」とせかした。そして、ナタでタラの低木を切払い、何度も往復した斜面には、クッキリと道が出来ていた。

古墳の崇り?ペタンじいさん

 一時期、古墳の崇りかと、仲間内で話題になったのが「ペタンじいさん」である。それは、古墳の盗掘から帰る途中のこと、自転車部隊は一列になって走行していた。その道は、直線道路で見通しがよく、快適に飛ばしながら、順位争いの攻防を繰り広げていた。五人は、一直線になり前傾姿勢で飛ばしていたが、大きく緩やかなカーブから、直線に戻った頃私は三番手にいた。みんなスパートのかけ引きを続けており、前方不注意は否めなかった。

私が、わずかに顔を上げ前方を見ると、道路脇の店から手押し車を押して、小柄な老人が横断を始めようとしていた。当然、先頭も気付いたが、レース中はスピードを落とせない。先頭が老人の前を抜け、二番手も老人のすぐ前をすり抜け、私もその後ろに続いた。悲劇は、その直後に起こるのだが、私は、残る二人も順調にすり抜けると確信していた。

突然、叫び声がした。振り返ると両手でブレーキを握りしめ、両足を踏ん張ってブレーキングしているのは、何も知らずに直進して来た、四番手のデカさんだった。ぶつかると思った瞬間、偶然にも、前輪が老人の後方から股の間にめり込む様子が、スロー再生のように見えた。前輪にまたがった老人は、必死でバランスをとろうと、両手を左右に広げ上下に振っている。老人の足が、もう少し長ければ良かったが、その限られた長さでは、如何ともしがたかった。老人の両足は完全に浮いて、前輪の泥除けに座る格好となった。その時、自転車は停止したが、慣性の法則であろうか自転車のスピードが老人に移った。その瞬間、前方に半身ひねりの状態で飛び出し、横向きに顔見せながら,アスファルトに激突した。

その瞬間、「ぺターン」と大きな音がした。その音量は、先頭も気付いて止まったくらいで、音が山々にこだましたようだった。その直後、それは柔道の受身のように両の手のひらで、アスファルトを叩いた音と分かった。急いで、デカさんが自転車を止めて駆け寄り、老人を起こしながら、「大丈夫ですか」と心配そうに体をさすっている。我々は、遠巻きにそれを眺める、ただの傍観者に徹していた。

老人は、大丈夫そうであったが、デカさんが老人の手押し車を起こした拍子に、一本の醤油瓶が、スルリと落ちてパチンと割れた。そこで、老人は初めて怒り出し、ようやく、我々は傍観者をやめてその場に近づいた。

会話は聞こえないが、デカさんがお金を渡す所が見えた。我々は「どげんしたとな」と、そこで初めて声をかけ、割れた醤油瓶を片付けた。ようやく、老人に払ったお金が醤油代と分かり、私とユウが、醤油を買って老人に手渡した。全員で「すいませんでした。」と頭を下げると、老人は許してくれた。

それから、しばらく走っていたが、デカさんの怒りがついに爆発し、「なして教えちゃらんやったとな」と言い出した。「いや、知っとうと思いよったけん」と答えたが、果てしない水掛け論を想像し、話題を変えてみた。「それより醤油は割れとったと」と聞くと「手押し車を起こしよったら滑り落ちたったい、醤油があったとやら知らんやったくさ」と答えたが、それから先は、笑い話へと移行した。さらに、「あの爺さんも道を渡らんどきゃよかったったい」と責任を先方に転化しながら、友人の怒りを静めるのであった。

翌日、話題は「ペタン爺さん」で盛り上がった。古墳を盗掘した崇りかという、ゾットする話題にも係らず、その光景を思い出すと笑話になってしまう。結局、ペタン爺さんのまねをして、自分達だけが爆笑していた。すると、女子達が一言「あんた達、おかしいっちゃないと」と言われ、「あんた達にはわからんと」と答えながら、また、強烈な笑いがこみ上げて来た。

  ついに、尖頭器にたどり着く

 私の興味は、旧石器に注がれ、その採集を優先しようと考えていた。そんなある日、デカさんが加與丁池で、とんでもないものを発見した。旧石器といえば、ナイフ形石器、細石核、細石刃などを採集していたが、尖頭器と称される、柳葉形の槍先形石器は、未発見であった。『日本の考古学』には、佐賀県多久市で出土した、大形の尖頭器が、図と写真で示してあり、いつしか、私の目標は尖頭器に絞られて行った。

突然、デカさんが走り寄り、「いいもん拾うたばい、なんと思うな」と話しかけて来た。彼が、そのような口調と行動に出た場合は要注意である。私は、「石鏃かナイフ形石器な、それとも石斧な」と聞いたが、「いいやちがうばい」とじらす。「なんな、見せてんない」と言うとチラリと見せて、後ろ手に隠した。その残像が頭に残ったが、それは、どう考えても尖頭器なのである。「もう一回、見せてんない」と言うと、彼がそっと手を開いた。彼の厚みのある手のひらには、確かに、サヌカイト製の尖頭器が納まっている。しかも、見事な完形品であった。「出たぜぇ、みんな来ちゃってん」と大声で招集したが、想定外の発見に動揺しながら、同じ物を見つけねばという焦りが湧き上り、いつものように、「石槍、石槍」と踊りながらも、心ここにあらずの状態だった。

 それから、みんなは四方へと散り、初心に帰ったように、再び探し始めた。ところが、間もなく私も、サヌカイト製の尖頭器らしきものを発見した。しかし、残念なことに完形ではなく、尖頭器の基部のようである。そして、何より完形品には、かなうはずもなく、空虚な感じは否めなかった。

  丹生遺跡類似の石器

 

 我々が、須恵町の城山団地に行った時のことである。すでに、造成工事は終わり、分譲住宅がかなり建ち始めていた。第六感が働き、削り残した僅かな空き地を探すと、トンチが、黒曜石の石匙とサヌカイトの破片を拾った。さすが、「石匙のトンチ」である。

それから、道を下る途中で、大きく削り残された丘陵の断面を、下から観察していたが、何やら予感がして、「よし、登ってみろうや」と急斜面をよじ登り、木立の中に入った。そこには、拳大の集石が何ヶ所もあり、中には、大小の自然石が建っていた。私は、断面に露出する甕の破片を採集したが、昔の肥溜めの甕によく似ていた。

「あぁ気色悪い」とトンチが言うと、なるほど、周囲を見回すと、あちこちに朽ち果てた墓がある。何気なく、足元に集められた河原石を見ると、その一つが目を引いた。取り上げると、それは片刃の礫器で「チョッパー」と呼ばれる石器であった。

 早速、周囲を探すが他には見当たらず、お墓ということもあって、急いでそこを離れた。その石器は、当時の私に取って大発見であり、ついに、前期旧石器の入り口に立ったのかと、喜びに溢れていた。早速、持ち帰り丁寧に洗って乾燥させた後、本とつき合わせるのだが、さすがに、その時は臭いを嗅いでみた。やはり、採集場所の墓地と同じカビ臭さが残っていた。

それは、紛れもないチョッパーで「日本の考古学」を開くと、敲打器文化として諸外国の例が示され、群馬県の不二山や権現山、岩宿Ⅰの石器が掲載されていたが、何れも上部洪積世として位置付けられていた。諸外国の例では、中国の周口店をはじめ、アジアの原人・旧人段階の遺跡から発見されてはいた。

以前、新大間池で拾った、石英製の石器らしきものは持っていたが、これほど見事な礫器は初めてである。久々に、ナラから借りっぱなしの「ライフ」を開いて、ボルドーの石器解説図を見ると、やはりチョパーであった。

 その後、「図説日本の歴史」という本を手に入れたが、その最初のページにそっくりの礫器が、カラー写真で掲載されていた。それを見た途端、慌てて遺跡名を確認すると、大分県の丹生遺跡であった。遺跡の年代が気になって、中を読み進むと、周口店やインドのソーアン文化に匹敵し、下部旧石器時代のものらしかった。私はすっかり舞い上がってしまい、これこそ最古の石器だと、自慢げに仲間達に話したものである。

丹生遺跡の問題は、その後、大きく方向転換し、最古の旧石器ではなく縄文早期の可能性が高くなったようで、最古の石器発見も糠喜びに終わってしまった。

  赤レンガの資料館

 

 私達は、福岡に遊びに行くと、必ず訪れたのが中州にある赤レンガの資料館だった。何度か通うと次第に慣れ、螺旋階段下のソファーで休憩することにした。座り込んで話をしていると、眼鏡を胸元に下げた、スマートな紳士が「君達は良くここに来るのかね」と声をかけて来た。私は「福岡に来た時は必ず立ち寄ります。」と答えた。「それじゃあ、考古学が好きかな」とまた聞かれたので、みんな「はい」と口を揃えて返事をした。その後、実際に石器を拾っている話をすると、「今度、来る時は拾ったものを持って来なさい、見てあげよう。受付で分かるようにしておくから」との事だった。

その時、事務室の戸が開き、女性が「館長お電話です」と言った。みんな「なんな、館長さんげなばい」と小声で言って、顔を見合せた。「電話のようだから、失敬するよ」と言い残して、館長は去っていった。その後、みんなで「凄いやないね、やっと認められるばい」と一しきり話し、資料館を後にしたが、興奮冷めやらぬまま、急ぎ足で天神へと向った。嬉しさのあまり、誰かが急ぎ足で先頭になると、誰かが追い越す。まるで自転車レースと同じ展開であった。

天神の中心にある、岩田屋付近に到着すると、横断歩道は黄色の点滅が始まっていた。私たちは、そこに駆け込んだのだが、興奮の余り「梅ちゃん走り」と叫びながら、その走法で駆け抜けた。さすがに、反対側の大勢が信号待ちする中に、到着した時は恥ずかしかった。ちなみに、「梅ちゃん走り」とは、同級生の独特の走る姿をまねたものである。

あれ、話がちがうぞ

 後に、老紳士とはM先生で、赤レンガの資料館で初代館長になった方だと知った。我々は、二週間後に再び資料館を訪れた。石器は菓子箱に入れ風呂敷に包んで、再び受付の前に並んだ。私が代表で、受付のお姉さんに「館長さんにお会いしたいのですが」と震える声で言うと、「はい、少々お待ちください」と言い残し、事務室に消えた。私達は例のソファーに座ったが、全員が、緊張し過ぎて沈黙のまま待っていた。テーブルの上には、既に風呂敷から取出した箱を並べたが、遺跡別ではなく石器の種類ごとに分けていた。

しばらくして、館長が現れ「おぉ君達かね」といって反対側に座った。早速、胸の眼鏡をかけ、一点ずつ石器を手に取って観察が始まった。「ほう、いっぱいあるね、これ全部拾ったの、そんなに拾えるのかな、それじゃ、君達の歩いた後には、草木も生えないだろう」と言って笑った。その後に「石器には何も書いてないけど、拾った場所と日付が分からないと意味がないよ」と言われたので、ここぞとばかりに、我々は、全ての石器の場所を答えた。

「ほうー凄いね、全部記憶しているの」と少し驚いた様子だった。特に、細石刃を手に取り、眼鏡を外して観察しながら「こいつを見付けられるのかな」と聞かれた。「はい、石炭の中から黒曜石を拾えます」と特技の一つを話した。館長は、一通り説明を聞き終えた後、みんなに「もしよければ、この資料を寄贈してくれませんか」と相談された。ここは渡りに船とばかりに、我々は顔を見合わせながら「はい、いいです」と答えると、必要なものは展示しようと、具体的な話にまで膨らんで行った。

 館長が「ちょっと待っていて」と言って事務室に入って行った。みんな夢のようだった。拾った石器が、資料館のケースに飾られ、寄贈者誰々と名前が書かれるのは、名誉であった。しばらくして、館長が真顔で「みんな入りなさい。」と呼ぶので、「待ってました」とばかりに移動しながら、住所や番地、全員の名前など、ひそひそ話しながら入って行った。

 館長が「実は」と申し訳なさそうに話し始めたが、中学生から寄贈してもらうことは、出来なくなったという事情であった。

「あれ、ちょっと待てよ、話が違うぞ」と思い「まだ何ぼでも拾えますから、いいですよ」と言うと、課長という肩書きの人物が、ぶっきらぼうに「話がわからんとね」と言い始めた。館長と同じ内容だったが「中学生を騙して取り上げたとか、寄贈された後に取り返しに来られると、迷惑がかかるので大変だろうが」と怒るように言葉を投げかけた。館長が割って入り「君達、とにかく今日の所は持って帰るように」とのことだった。しぶしぶ持ち帰る事にしたが、我々が退出した後も館長に「軽々しく寄贈してくれとか言わないで欲しい」と長々と課長の注意が続いていた。

私が風呂敷包みを持って、資料館の階段を下り始めると「えーくそ、せっかく話が進みよったとに、あの課長に邪魔されたが」と、みんな聞こえるような声でわめいた。ようやく、歩き出したのだが不満は晴れず、ふり返っては赤レンガの建物に文句をつけた。しかし、心底ショックだったのか、その時は、さすがに天神に寄らず、そのまま帰宅した。

  遺跡の消滅

私は、次第に石器が増えるが、何より楽しかった。そんなある日、古大間池を訪れた時のことである。私は、信じられない光景に遭遇した。いつものように、水位の下がった池の縁に降り立つと、ブルドーザーのキャタピラの跡に気が付いた。それは池の縁を削り取りながら、対岸の宝の山へと続いていた。

対岸の様子が気になるが、ぐるりと回らないと到着出来ない。普通なら無難な通路を歩むのだが、どうにももどかしく、途中のヌカルミを急いで横断した。その結果、足首近くまでヘドロがへばりついた。それを取るために、片足ずつピンピンさせ、すり足をしながら土を落として、現場に到着した。とにかく、私のフィールドに、ブルドーザーが入ったことが何より許せなかった。

本来、そこに露出しているはずの包含層は、見事に削り取られ、大きく後退していた。最近まで、桂化木と弥生土器が散乱する池畔は、平坦に削られキャタピラで踏み固められていた。地中から掘り返されたばかりの、弥生土器のカケラが「うおー」とでも叫ぶように、痛々しく地面から突き出ていた。

私は全部持ち帰ろうと拾うのだが、今まで無視してきた夥しい弥生土器は、キャタピラの凹凸に粉々にされて敷き詰められていた。その光景を前にして、ツーンと鼻が痛くなった。無力感に涙が流れ、何か歌を歌ってみたが慰めにもならない。この光景を仲間達が見たら何と言うだろうか、たまたま一人で来たのが災いとなったのである。悔しさのあまり「うおー」と叫んだが、すぐに途切れてあきらめた。愛用のスポーツバックに詰め込んだ弥生土器を、止めてあったブルドーザーのブレードの前に積んだ。機械を動かなくする呪いのように、小さなケルンを作ったのだ。

その日は、強い風が吹き続け、口笛のような音が聞こえてくる。風がブルドーザーのブレードにあたって聞こえるようだが、徐々に、耳障りになって来た。「もう帰ろうや」と、そこにいるはずのない四人の仲間に話しかけてみた。すると、強弱が繰返される、口笛の音色に混じって「もういいくさ、どうしようもなかろうが、帰ろうや」と聞き覚えのある声がした。気のせいだろう。しかし、その場を去る決心はついた。

自転車の鍵をはずし、サドルに腰を降ろしたが、視線は切通となった採集地点を見ていた。視線の手前には一本の松があった。引きかけた池の水面が、キラキラと強く光を反射し始めると、晩秋の陽が西に大きく傾いた証拠だ。私は松葉の一本を抜いて口にくわえ、「よし」と一声気合を入れた。それから、砂利道の急坂を一気に登り、全力でその場を離れた。それは、採集品のない初めての帰宅となった。

やがて、私は中学を卒業し高校から大学へと進んだ。たが、進路について、何ら迷うことなく考古学を専攻した。卒業後は、縁あって筑豊の小さな町役場に就職し、社会教育課に配属となって、考古学を続けた。しかし、その職業人生も、どうやら終わりが見えて来た。後は日々「考古学少年」を続けようか。

もう、自転車を走らせながら、古い友人達と徒党を組むこともないだろう。しかし、昔の姿のまま、私を受け入れてくれる、池畔が僅かに残っている。時折、その地に立つことがあり、今でも、蒲田池であみ出した、ジグザグ走法で石器を拾う。残念なことに踊りの輪は出来ないが、日々「考古少年」だったあの頃を回想し、ボンヤリと水面を眺めている。

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