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2009年12月

ましの部屋・グレーゾーンの石器群

  1949年晩春、相沢忠洋氏岩宿で切通しのローム層中から黒曜石の石器と小剥片のみを出土する文化遺物を発見。後の先縄文・無土器・先土器・旧石器など様々に呼ばれる、縄文に先行する文化の発見につながった。あまりに有名な岩宿遺跡の発見であるが、今日、旧石器文化と呼んでよいのか、その研究の足跡を、かたよった資料から振り返ることとする。というのも、手元にあるのは、少しばかりの学史の本しかなく、恵まれた環境ではないが、少しでもやれば何かが見えてくるかもね。

 1949年日本列島における旧石器文化の存否について、長谷部 言人氏による明石の発掘調査結果について、人類学雑誌上に否定的な論調がいくつか掲載された後の岩宿遺跡である。杉原氏の論調は一時旧石器として岩宿を位置付けられたかに思われたが、その後の研究会では、確実には、縄文最古の稲荷台式以前のものとして取り扱われるに至った。それまでの、学会の定説を覆す発見は、なかなか簡単に受け入れられるものではないらしい。縄文遺跡の発掘でロームに到達すると終了、こんな常識の中、杉原氏らの発掘は、期待薄しの気持ちで進められたようで「味気ないといったらない」と当時をふり返っている。    

 発掘地点の設定も、相沢氏の発見場所とは反対側を掘ってますね。崖のカッティング面に砂利のようなものが少しでもある面ということで決まったらしい。ロームは火山灰土で砂利のようなものが混在する事はなかろうから、そういうものがあれば、人為的な臭いがするといったことでしょうか。最初はバルブをもった頁岩の剥片、それでも、形状のしっかりしたトゥールを狙う。執念は見事に終了ゴングの10分前に杉原御大自ら、伝説シャベルで探り当てた。

 「貝塚」の1949年度の動向に、岩宿調査の件が江坂氏によって紹介されている。そこには、稲荷台式の発掘地点は、150m隔てた同丘陵上で石鏃等を伴うこと、今回の岩宿文化層との間に70㎝くらい笠懸層(ローム)が介在することで、新石器初頭より遡ることが判明したが、北関東のロームの年代が、洪積世か沖積世かという判断が明確ではなないため、後期旧石器後半期か中石器なのかは今後の課題と結んでいる。

 この点は、鹿間・高井両先生の意見が違っていて、「洪積世の終わりに入るので旧石器でよかろう。」「沖積世に下る可能性がある。」と肯定・否定の2派に分かれたそうであるが、高井先生には、東大の誰かが圧力をかけたらしいと、また、同時に北関東のロームが沖積世に下るもので、あの石器類は縄文のものとして周囲が騒いだとも芹沢氏は述べている。

 岩宿調査の中オート三輪でのり込んで来た人物は、山内先生だったらしい。その時、地質学者2名が連れて行かれたらしい。先生は縄文研究の父と称され、その研究から縄文の起源追求、その先に何が見えていたのであろう。関東の岩宿で、こともあろうにローム層中から洪積世の遺物が掘り出されている。アプローチが異なったのか、縄文をおさめた学者は、縄文以前の文化を予想していたことは十分に考えられる。それが、思わぬ別の方向から、明らかにされようとしている。山内先生は、薗田芳雄氏とともに栃木県の普門寺を調査し、報告で岩宿文化層含む上部ローム層を土器を包含する層で沖積世層のものとし、岩宿遺跡も同様の時期とした。その後、山内先生は、芹沢先生に、明石原人と岩宿を「ダブルプレー」と言ったらしい。その反面、茂呂のナイフ形石器を所持するといった状況であった。

 世の流れから行くと、相沢さんはなぜ東大の山内先生を訪ねなかったのか、当時、最も古式の文化を追求していたのは山内先生ではなかったのか。その後、考古学的手法により日本列島を旧石器から縄文へと編年され、岩宿を含む多くの石器群を無土器文化として沖積世のものとし、丹生が旧石器として組み込まれた。炭素年代等に異論を唱えられた先生は、あくまで考古学的手法に基ずくもので、自然科学者は考古学的方法の正否を問えないし、考古学者も炭素年代という自然科学方の根本を崩すことも出来ないままに、平行線はつづく。今日、その問題は、自然科学による関東ロームの分析や年代測定等により解決されたかに思えるが、実は、一方が途切れてしまった結果による所が大きいと聞く。

 岩宿の調査に始まり、立川ローム中の石器群は数多くの調査を経て相模野や武蔵野を中心に石器群の編年研究が進められ、誰もが認める最古の石器群は、Ⅹ層中に存在する。不幸ながら捏造事件が全国を席巻し、今や、、Ⅹ層中の石器群を最古と位置づけ、それ以前は無人列島と解釈する側、いやそれ以前に遡るという側と、やはり、杉原仮説が未だに輝き続けている。一方で、捏造事件後もいくつかのより古いと考えられる石器群の調査が行われているが、いずれも、、Ⅹ層文化のように認められていない。こういうものをグレーゾーンと称している。つまり、杉原仮説の①と②の両者を証明できる石器群は、まだないことになる。しかし、このグレーゾーンは何とも魅力的であり、いまなお、探し続けられている。杉原対芹沢の構図は、世代を越えてなお歩み続けている。

 最初に取り上げられるのは、N.G.マンローで1905年神奈川県の酒匂川の礫層から1~2tの礫を発掘して石器と思われるもの、また、早川の基底礫層からのもの合わせて7点を写真で提示゛した。「プレ ヒストリック ジャパン」である。これは、ヨーロッパのアッシュール文化の指標とされるハンドアックスが礫層から出土している状況が多分に影響していると感じられる。写真(芹沢 古代史発掘 最古の狩人たちP 101)を見ると2はピック、7はハンドアックスに見える。マンローは、ヨーロッパでの石器と発見状況をそのままに、日本に当てはめようとしていたのだろうか。芹沢氏は、杉原氏が渓谷に露出する礫層と言ったのに対し、礫層と赤粘土層ですと、より細かな説明をしている。(シンポジウム日本旧石器時代の考古学)実物は失われているのであろうし、その後、同所を発掘した事はないようだ。写真だか2.5.7は、実物があれば面白いかもしれない。早水台と比べてもそれほど劣っているとも思えないが。赤粘土層をもう一度調べたらどうだろう。日本の礫層はだめか。

  昭和11年『ミネルヴア』創刊号の座談会の席上、甲野(座長)と江上・後藤・山内・八幡5氏の談話が掲載されている。最初の題が日本に旧石器時代があったかどうかという点では、日本に旧石器は存在しないという定説の中で、思い切った題である。もっとも、結論は考古学の現状として旧石器時代の存否を論議するまでに至ってないとし、縄文文化を最古としながら話が進む。

特に、縄文文化の終焉問題において山内氏は、「實にいかがはしい事」と言い放った。喜田貞吉氏は、怪しいものを提供した責任上としながら、実例をあげて反論した。これが「ミネルヴア論争」のはじまりであった。

本筋にもどすが、口火を切って山内氏が旧石器として確実なものはないと断定し、その上で問題になったものを示した。マンローの酒匂川・早川の例である。鳥居先生が程ヶ谷あたりで類するものを探したと八幡氏が発言する。後藤氏は河内国府の大形打製石器が問題になったとした。確か、喜田氏が「ぶさいくなる大形石器」として紹介したが、偶然の作として浜田耕作氏が否定論を示したと思う。

 直良氏が、播磨の海岸で洪積世の哺乳動物と一緒に石器類のことが話題にのぼり、条件をそろえ研究を続けており、いつか良い結果に恵まれると山内氏が述べている。すでに、朝鮮半島や中国で盛んに調査され、ハノイ近辺でも発見されていることを江上氏が報告している。北海道でマンロー氏が旧石器らしきものを発見しているが層位や搬出物が不明であることを甲野氏が伝えている。そのほか、曽根氏の椿山のエオリスは、石匙が一緒に出ている点で危ないことを山内氏が指摘している。まとめとして、旧石器としてまとまったものの発見はなく、人工品としての打裂した証拠やバルブがあるものもないと山内氏が述べる中、注意すべきは「尤もブルブス必ずしも人工とは云えないし、それがなくとも人工の物もあるでせうが」と具体的に石器と自然石の違いについて簡単ではあるが重要な指摘をしている。これは、思うにヨーロッパのエオリス論争あるいは、中国の周口店を踏まえての発言か、あるいは、金関丈夫氏の所から借用した先史学の大辞典からの引用なのかは分からないが、昭和11年の段階でいうなら、旧石器への関心はかなりのものと推測される。

 同じ頃、八幡一郎氏は、諏訪湖の湖底「曾根」より採集される石器群に着目し、石刃あるいは石剃刃と称される一群について北海道を含む北日本の「所謂細石器」は一般化さなかった。つまり、根づくことはなかったが湖底より採集されるものと共通するテクニックであることから注意を促している。そして、当時までに知られていた蒙古の石刃と極めて似ていることを強調している。その上で、ヨーロッパからアジアの広範囲に細石器の分布が見られ、その代表的なものが石刃としている。そして、テクニックなる手法は同じだが、石材が異なる。おそらく、大陸のものはフリントで、日本のものは黒曜石であるため、その材質の違いは大きいと判断されている。また、手法的にも北海道のものの方が、より大陸に近いとも述べ、曾根湖底のものは若干異なる点をあげている。また、曾根のものには確かなブルブス(バルブ)が見られない点で本格的な石刃とは見做されないという山内氏の意見を取り上げ、石核を欠いている点(山内氏の意見か、八幡氏の私見かは分からない。)も問題としている。ここでも、山内氏の存在はかなりクローズアップされている。

 山内氏は、昭和24年の岩宿発見の石器群を無土器文化としたことは有名である。「縄紋土器の改定年代と海進の時期について」の中で 「地質学者がその発見を賞賛し、一般先史考古学者の遅愚を罵倒した。」と記している。そして、縄文文化は無土器文化から発展したものではなく、その初期において大陸伝えられたとし、岩宿を代表とする無土器文化が不毛なもので、高度の技術を有する縄文文化の祖たりえないとしている。

 当時の情勢からして、昭和24年代に少なくとも日本最古の縄文文化研究の第一人者であり、当然、それより古いと思われる文化の一端が明らかになろうとする場合、相沢氏はなぜ山内氏の所に走らなかったのか、探ってみたくなった。グレーゾーンの石器群というより、グレーな研究者社会かな。

  相沢氏は、江坂氏のお宅に伺っている。最初は尾崎氏そして清水氏から江坂氏と移ったと記憶するが、とにかく、芹沢氏との運命的な出会いは、江坂氏宅である。たしか、槍先形のものを持参していたが、江坂氏には見せず、芹沢氏に見せたらしい。そのころ、M・バーキットの本が基本となっていたらしいが、杉原・芹沢両氏の勉学は確実にヨーロッパの旧石器文化を研究していたのであろう。ちなみに、杉原氏といえば弥生の研究がまっ先に浮かぶし、芹沢氏は山内氏あたりとの接触をもって縄文文化の研究に進んでいたかと考えるが、その実、日本列島内ではグレーゾーンとされた旧石器文化の研究にも両者が手を染めていたようである。

 先史考古学の第一人者山内氏は、当然、縄文文化の底を求め、さらにその先にあるものを探られていたことは周知のことである。相沢発見から尾崎→清水→江坂→芹沢→杉原という順序が岩宿調査発見の流れであるが、そのころ、登呂遺跡の発掘で関東の学者はほとんど静岡で、たまたま、縄文の江坂氏と明大の助手の芹沢氏が東京にいた。一方、山内氏は、昭和23年には関東にいて普門寺遺跡などを調査、よく24年も登呂遺跡とは無関係な状況であり、しかも、東大の講師であり相沢氏の足が向けばどうなっていただろう。少なくとも当時の山内氏は、江坂・芹沢両氏に比べ縄文研究者として、当時考えられていた日本列島での最も古い文化の研究を牽引していた人物である。そのあたりが面白いところである。

 鎌木氏は、山内氏の岩宿をはじめ茂呂など次々に発見される古式の文化に関心を持っていた点について、剥片石器などヨーロッパのものとの対比や岡山に来て鷲羽山の石器を見たり、鹿間氏と尋ねてこられたりしたこと、また、茂呂遺跡出土のナイフ形石器を所持され、含みをもって鎌木氏に接したことなど、かなり、興味を示していたが表に出すことはなかった。それが、丹生遺跡問題につながっていくようであるが、発端はやはり岩宿遺跡の調査を自分でできなかったことが、ずっと影響するようである。

 それでは、なぜ山内氏に情報が伝達されず、明治大に伝えられたのであろう。それこそ、芹沢氏の旧石器研究と探究心があって、初めて槍先形石器を見た瞬間、しかも赤土の中から出土するという情報に対して素早い行動が取れたのであろう。その情報が、弥生研究の大御所である杉原氏に伝えられ、登呂遺跡という戦後最大の弥生集落発掘において、いわば、陣頭指揮に立っていた杉原氏が、こっそり現場を抜けてまで岩宿にひきつけられたのであろう。後に杉原氏は、登呂遺跡の終了後に向かったとしており、「旧石器の狩人」の中では、現場の途中で姿を消したとも記されている。

 杉原氏は、登呂遺跡から芹沢氏に手紙で、1日でも2日でもいいから登呂で発掘をやりなさいという誘いを行い、芹沢氏の返事は、重要な石器に関することがあり、先生の帰りを待つという内容であったという。昭和24年9月の4日か5日に杉原氏が帰ってきて、8日に相沢氏とあっている。

 昭和22年相沢氏は、岩宿を訪れるたびに膨らんでいく縄文文化以前の新文化の発見の可能性を秘めながら、群馬大学の尾崎氏を訪ねる。そこで、縄文早期の文化から突き詰めていくべきと諭されたという。もっともなことで、突然、それまで火山灰が熱く堆積した死の世界に、人類文化があったとは考えれないことである。したがって、縄文最古の文化からさかのぼる必要性を説かれたのであろう。

 それから2年、岩宿通いが続けられ昭和24年、日本考古学研究所をはじめ清水潤三氏等に手紙を出すが、実物を見なければといういずれもの返事に、ついに、東京へ向かうこととなる。日本考古学研究所からの返事は、芹沢氏だったようで、何度か手紙のやり取りが合ったらしい。相沢氏は東大や武蔵野郷土館を回るが、当時の関東では、登呂遺跡の発掘でもぬけのからといっていい状態であった。ようやくにして江坂氏の所に行き着く。そこで、芹沢氏との運命的な出会となるが、最初に相沢・芹沢両氏の対面では、石器を持ってきていなかったらしい。そこで、出土する深さやどのような層か調査するように告げたとしている。その後、間違いなく赤土の中で1~1.5m、赤土の下に黒っぽい層(ブラックバンド)がありその中からも間違いなく出土するという内容を何度か手紙でやりとりし、そして、相沢氏が石器を持ってきたとあり、江坂氏宅でいきなり内緒で石器を見せたというのは違うようである。

 杉原氏が帰るとすぐに相沢・芹沢両氏が石器を見せている。杉原氏は尖頭器より石刃状の剥片に興味を持ったという。バルブのあるカミソリのようなその剥片が、縄文では出ないもので、むしろ、ヨーロッパの旧石器時代のものに似ていた点であった。昭和10年に八幡一郎氏がすでに予察的な論考を示した。

 9月4日か5日に帰った杉原氏が、8日に実見し10日には現地入り、11日に岩宿の露頭を掘削していたという。この迅速さを藤森氏は台風と表現し、杉原氏は「疑わしきは掘れという明治の学風」という言葉で表現した。

 山内氏の方に話は戻るが、縄文早期を水戸式まで追及されていた。昭和14年白崎氏が稲荷台で撚糸文土器を発見する。しかも、ローム層に食い込むように出るというのである。これに江坂・芹沢両氏が合流し踏査が開始されたのであるが、そこに、山内氏が登場するのである。もっとも、関東の早期については、水戸・田戸など撚糸文の次の段階から編年が完成されていた。山内氏は、水戸式以前を予察されそれを縄文最古の土器とは断定せずにいた。

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