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2009年4月

嘉穂盆地で旧石器を発見しよう。(原産地も見つけよう)

さて、いよいよ嘉穂盆地で旧石器を発見しようという大きなタイトルをつけてしまった。もう何年になるだろうか、嘉穂盆地内においてこの手で旧石器を探そうと意気込みばかりで、過ぎてしまった日々。丘陵や溜池、台地を歩いたが何の手がかりもない。落ち込んでは這い上がり、歩き回ってはまた落ち込みと何度くり返したことだろう。杉原君には可能性のあるものが出るたびに、見てもらうが決め手に欠けるものばかり。もっとも、それなりの物が出れば私にもわかるのだが、とにかく可能性は捨ててない。一つわかってきた事は、阿蘇4と称される古い火山灰土が結構残っていることで、そのような古い土壌が残っているなら、思ったほど侵食されていない地形が方々にあること。今のところ、嘉穂・碓井・桂川・筑穂という遠賀川や穂波川上流域にそのような古い地形が残っているように思う。飯塚の西側あたりはすでに基盤層のマサ土がむき出しになっている場所が多く、結構風化が進んでいる。

 先日、旧碓井町の日吉神社境内にある古墳を福大が過去に調査したが、その際に出土した数片の黒曜石を見ていて、2点ほどであるがパティナが厚く、結構古そうな破片を見つけたので、例のごとく杉原君に見せに行った。基本的に定型的なトゥールが存在しないので決め手に欠けるが、意外と古いものであろうという見通しがついた。そこは、丘陵で古墳があるがいかにもそれより古いものがありますよという感じで、魅力的である。最近、家の新築で浄化槽の掘削に立ち会った松浦君から、阿蘇4を確認した旨画像とともに見せてもらった。

 御塚古墳の調査でも、低位段丘と思われるが阿蘇4を確認している。意外と身近なところで発見するかもしれないと思っていたやさき、10年近く前になろうか嘉穂の馬見で大型前方後円墳ではないかと確認調査したのだが、自然丘陵だった稲荷前遺跡で、頂部にあった石蓋土壙墓5基を確認調査した際に、発掘区を下げていったが、当初から石蓋が一部見えるほど削平されたところで、表土直下から赤土であった。それも30~40㎝くらいで、花崗岩の風化した岩盤のような基盤に達した。発掘区中央がやや窪んだ状態で、古墳の主体部かと思ったが、いかにも自然な落ち込みであった。その辺りを掘っていた時、おばちゃんが水晶を見つけた。「こりゃすごいね」といって手に取ったが結構大きな水晶で、きっと岩盤から突き出ていたのだろうと思い、自然物として取り扱っていたが、先日、改めて見てみるとどうも基部を調整して、縦長剥片を取ったコアのようである。ちょうど、先端を下にすると円錐形のコアそのものに見えるのだが、数ヶ所に縦長の剥離痕が存在するようである。

 まてよ、確かに赤土の下部から出た記憶があり、土器類は全くなかった。赤土は鳥栖ロームの可能性がある紅土である。硬い水晶の剥離面は風化し稜線の鋭利さはない。もちろん丘陵の最上部で礫層でもない。ちなみに、馬見・屏・古処は厚い花崗岩が山全体を持ち上げていて、ペグマタイトが各所に見られ、馬見山の山腹や特に古処山複の白石山では大量に石英や長石が取れ、煙水晶とよばれる水晶が多く取れる。そんな、山々の麓に位置する丘陵の頂部から採集したものである。

 早速、杉原君に電話して近々見てもらうことにしているが、縄文や弥生の遺跡から1~2点ほど水晶が出土している。しかし、今回は明らかに赤土下部である。内心ワクワクしながら、水晶や石英が豊富な馬見連山の山麓にある高原のような場所に、今度は目を移そうと考えている。石英は自然崩壊でも薄い剥片のような鋭利な素材を生み出す。特別な加工はいらないままに、自然と石器として使える。しかも、広く分布する花崗岩地帯ならいたるところで見ることが出来る素材である。中国や韓国でも古い石器の石材として大いに利用されており、これを逃す法はない。芹沢先生もそんな考えがあったのかな。石英系からチャートへと九州から関東へと場所を移されたが(宮城は抜きにして)、全谷里の資料を見ると、石英を粗いが確実に人工加工が施されているのがわかる。周口点の実物を見ていないのが残念であるが、礫ではなく露頭から採集した場合も想定しないと、3~4万年は越えられないだろう。

 諏訪間君よまっていろよ、その内、とてつもなく古い石器を土産に神奈川に乗り込むぞ。おっと、ゴッドハンドはなしで行くよ。

旧石器の認定は、石英やチャートといった石材に対して、厳しい検討を行なってきた。にもかかわらず、今だ認定の方法は曖昧である。そこで、いかにも人工加工が施された品々が、自然科学で認定された確かな地層から検出されれば、自ずと認定されるという方式にのっとって、縄文以降、あるいは新作の石器を埋め込んだのが、捏造事件である。必ず、礫などの状況にある自然石を割らないと石器は作れないのか、露頭や崖錐堆積物から採集したほうがやりやすいのではということを常に思っている。

4月23日九歴に杉原君を訪ねる。稲荷山遺跡の石棺墓群近くから単独出土した水晶で、赤土(鳥栖ロームか?) より下の花崗岩系岩盤近くに位置していたもので、近年まで花崗岩の岩盤より結晶したものと考えていたが、基部から先端に向かって数条の剥離痕が見られることに気付いた。また、側面の斜め下から水晶の稜線を剥ぎ取る剥離も見られ、水晶製の石核の可能性が感じられた。そこで、いつものように杉原君に連絡を取ったわけである。多忙な彼には申し訳ないが、実物を見てもらい感想などを聞いて、次なるステップへと進むのが最近の私の行動パターンである。

水晶は、自然に稲荷森の赤土の中で1点のみ大きく結晶したとは考えにくい。また、礫層はなく、人為的に持ち込まれた可能性はある。ただ、これまで確認されている水晶石器は透明のガラス状に結晶したものを使用している。旧嘉穂町でも数点出土しているがいずれも透明な良質の水晶で、今回のように煙水晶のようなものは使用されていない。最もである。

行橋市の渡筑紫遺跡は、水晶を原材とする旧石器が確認され、石器製作所の可能性が指摘されている。水晶はやはり透明なものを選択して使っているようで、ATより下層から検出されたことで3万年前後の年代が考えられている。水晶以外には珪質岩、黒曜石、安山岩で、黒曜石以外は付近の石材を利用している点に特色がある。関東でも立川ロームの下層のものはチャートやホルンフェルスなど身近な石材を多用しているようである。

韓国の全谷里や金坡里など明らかに石英を石材として使用しており、それをうまく連続的に剥ぎ取って石器を作っており、その剥離も交互剥離である。また、核となるものとそれから剥離した剥片が共存しており、人口品であることが容易に分かるという。全谷里より金坡里のほうがもっと分かりやすく、ハンド・アックスから剥ぎ取られた剥片は、バルブ等が確認されると思わせる見事なもので、かなり硬い石材をうまく加工していたようである。ちなみに、石材は身近で手に入る石英の礫を使用している。

その後、中国の丁村遺跡の石器の話しになり、玄武岩を見事に加工していることが分かったし、周口店も脈石英という洞窟内でも入手できる石材を多く利用しているという。そういう点から考えて、当方も石英や水晶、玄武岩、チャートにもう一度絞って探そうと考えたわけである。

古処山の麓に白石山と称され、以前、石英や長石の採取がなされていた。もちろん、ペグマタイトの部分で、水晶など色々な鉱物が採集される。そこには、人工的に粉砕された石英が山のようにあり、観察するには十分ありすぎるほどだ。それらの特徴は、観察したものにバルブがなく垂直に切ったような面を見せている点である。また、両脇には鋭い刃部が自然に出来ており、下手をすると皮膚を切りそうである。つまり、石英は剥片を剥ぎ取るという目的意識の基に剥ぐとおそらくバルブ状のものが出来ると考えられるが、単に破壊されたり自然崩壊ではバルブ等の痕跡が出来ない可能性がある。一つにはハンマーの質や使用法、角度などの条件が充たされた場合に全谷里や金坡里のような剥離が生じるのであろう。削岩機や単に石同士がぶつかり合ってもなかなかそのような形状は生まれないと思われる。

結論は、コアと剥片がセットで見つかる。出来れば接合できるものという条件をまずクリアーしたいものである。

嘉穂地域を考えるなら石器の原材となるものに、どのようなものがあるのか考えると、馬見から古処山にかけて点在する石英や水晶、琴平山、帝王山、市室山の三山はいずれも火山で玄武岩の産出地である。それから、竜王山東部の段丘礫にはチャートが含まれている。原材料を確保し石器製作を行いながら生活するには、その周辺で狩猟と採集活動に適した台地や丘陵がその第一候補となろう。石英や水晶なら馬見から千手付近、玄武岩なら上臼井や西ノ郷、上山田、入水付近、チャートなら飯塚市南西部の丘陵地帯となる。

石英では、久保白ダム南側に一ヶ所小規模ながら石英の断片がちらほら露出する場所があり、不透明ではあるが水晶の大きな塊を採集した。チャートは明星寺から東側あたりに見ることが出来る。

いよいよ、連休に突入するがこのさいもう一度歩いてみることにする。その時はメガネを携帯しなければ、足元がぼやけて見えにくく、歳を感じるこの頃である。

長くなるかも。今日も今日とて石器探しに出かけた。短くまとめるとスカである。しかし、長く書こう。桂川の天神山古墳の丘陵から土居の老松宮、久保白ダムの石英の場所、西横田の切通し、最後に火山である琴平山に登って表面採集を行なう。久保白は、切通しの断面に花崗岩の岩盤が露出していて、それがダムを周回する道路建設により壊され、混じりこんだようである。西横田では切通しの下に白色の先端が鋭利な剥片状のものが目に入る。急いでフェンスを乗り越えて拾うが、自然の石片でがっかりした。相沢さんにはなれない。

最後に琴平山に登りながら玄武岩の石器を探す。これもスカに終わる。ただ、面白かったのは、山頂から山腹、山麓に至るまで露出する玄武岩は、大小を問わず全て角のない円礫で河川の堆積物に見える。もちろん六角柱のものはない。頂上付近に平地があって古墳が3基あるが、それは奥の方で手前に平地が広がっている。古墳は平地を利用しており、その時期にはすでに平地だった可能性がある。頂上付近は城郭遺構があり、切岸が施された小曲輪と鍵手状の虎口が確認できる。古墳の盛土上から土器片を採集するが古墳より古式のものと思われる。平地で玄武岩を加工し石器に仕上げた跡は全くない。以前、同地点で黒曜石を採集したというが、何のためにその平地にいたのだろうか、冬場にまた登ることにする。

もう一つわかったのは、山の南側に火山の噴出物と考えられる堆積層を発見した。その下層には第三紀層が接触しておりその層を突き抜けてマグマの噴出があったことがわかった。凝灰岩系の石となっているそのものは、琴平山の南に位置する標高60mの位置にある竹生島の古墳を発掘した際に、その凝灰岩系の塊が多く出てきたが、全く同じものとわかった。とすると、同時あるいはその後に小火山が出来たのか。これはこれでよい結果となった。

やはり、長い。

5月8日(金)極細のクモの糸が降りてきたかな。カンダタではないが、天からするすると春先の子グモの糸のように細くて弱々しいヒントが見つかった。以前にどこかに書いた旧碓井町の竹生島古墳の発掘調査で出土していたフリント製の石器、石材の確かなところはわからないが、火打石にある灰色の珪質岩で、周囲から出土した遺物にもとづいて縄文早期以前のスクレーパーか、あるいは、お宮の裏ということもあり近世の火打石かということで、『竹生島古墳』の発掘調査報告書には記しておいた。

ところが、松浦君が突然、桟敷原遺跡の貯蔵穴出土遺物の中に同じ石材がありますよときた。まさに、「来たー」であった。さっそく、今日持ってきてもらって両者比較すると同じ石材である。桟敷原は貯蔵穴内から弥生前期の土器がかなり出土していたが、上部が削られていて、1/3が残っていたような遺構である。まずもって、近世の物が混じったとは考えられない。しかし、弥生の石器に使用したものでもないと考える。残るは包含層をぶち抜いた跡に弥生の遺物と混在した可能性が高い。

残念ながら何型石器とはいえないが、同じ石材が出土した事は、まずもってうれしい限りである。一つは原材料の産出地あるいは同石材の石器類例を探すこと。もし、見つかれば時期的にどうなのかがしりたい。

後日、筑豊の連中に聞いてみるが、嘉穂地域ではお目にかかっていない石材で、今のところ碓井地区限定で、しかも、古い可能性がある。専門家に石材鑑定を依頼するしかないが、遠方であればこれまた面白いし、近くで見つかるのならなおさらのことである。

おっと、途中で糸が切れないように気おつけよう。

注意しなければならないことがある。この石材は一見姫島の黒曜石と間違える可能性がある。それなりに注意すればわかるが、灰色や灰白色の石材イコール姫島と考える場合があるようだ。

ところで、桟敷原の貯蔵穴の断面写真を見た。深さ50cm程度しか残っていないということで、穴の規模からすれば、下層の堆積物になる。問題は近世の遺物が混入しているかどうかである。調査時には表層に新しい遺物や礫など、つまりお宮の社殿をつくる際に、整地したものでその部分が最も上位の薄い層で見られた。しかし、その下方の上層には弥生土器はあっても新しいものはないという。

5月18日石材をもって岩石専門に会う。見た瞬間姫島では、あんのじょうの答え。次に桟敷原の資料を見せる。そこには自然面が残っており、すぐさま長石が付着している。おそらくカリ長石でしょう。これは、堆積岩つまりチャートではなく石英で、ペグマタイトならあってもいいです。また、写真の面は、過去に割れた面ではなく、石英等に見られる直線的な摂理面ですとの回答であった。竹生島のものもよく似ているそうで、いずれも火成岩に属するものでしょうということであった。

 竹生島出土の剥片=火打石、桟敷原の石片=弥生以前、竹生島出土の剥片=桟敷原の石片となれば、竹生島出土の剥片は弥生以前となり、しかも、石英系で古処山近くに見られるペグマタイトに発達した灰色の石英を割り出した。あるいは、そのあたりから河川や斜面の転石として存在したものを利用したのか。現地には灰色の大きな石英が打ち割られて山のようになっている。そこから石材を採取するか転石を利用すれば、いいわけである。

 近世に火打石の原材料も採取していたかもしれない。もし、このての石材で石器を製作するとすれば、古い可能性は十分にあろう。姫島と思っていたものが、実は朝倉花崗岩帯に伴うペグマタイトからとなれば、石英製の古式石器に出会えるかもしれない。面白くなってきた。全谷里か金坡里のように石英製、しかも、灰色の石英製ハンド・アックスに会えるかも。・・・江戸期あたりに火打石採石場だった可能性もあるな。文献も見てみよー。

  1 探求 竹生島古墳から出土した剥片は火打石か?

上記の問題について探求する必要があろう。なにせ、火打石と言われてもピント来ないのが現状で、通常、当地域で石器に使用されていない石材ではある。灰色の石英質でチャートではないようである。このような灰色系の石英は、古処山の北麓に白石山という、かつて、珪砂や長石を採石していた場所があり、一般には、水晶が取れる場所として知る人ぞ知るという場所がある。そこは、朝倉花崗岩帯に伴うペグマタイトが存在しており、石英の露頭がある。産出する石英は白色のものが多いが、灰色の黒色系のものが混在する。放射性鉱物によりそのような色合いになっているらしく、水晶も煙水晶のような灰色の色彩のものが多い。中には緑色を帯びたものまである。

 藤木 聡氏が古文化談叢に火打石の集成を行なっている。本日、福岡地方紙研究会で古八丁越の諸問題ということで発表したが、当然、県立図書館での発表で、いそいそ出かけ藤木氏の論考をコピーしてきたのである。中を読んでいるのだが、灰色系の石材が出てないようではある。江戸期以前はかなり高級な品であり、地産地消が基本らしい。しかし、高品質のものは、地域を越えて広がるらしく少し興味を抱いている。

 藤木氏と連絡がついた。近々に福岡に来るそうで是非とも物を見てもらいたいとたのんだ。九歴の展示ケースを久々に見学したら、築城町石町遺跡で出土した、白色の石英で製作されたスクレーパーと灰色のチャートかな、桟敷原で出土した灰色の石英に似た石材で大きな石匙が展示されていた。また、今日は長谷川さんのところで、北古賀の石鏃等を見せてもらったが、灰色のチャートせいのものがあり、塩見先生の指摘したものとは異なるもう一点を見つけた。確かに姫島の黒曜石は多いが、色合い等で判断すると危ない。竹生島も灰色で一見姫島に見えなくもない。黒色は伊万里、灰色や乳白色は姫島という先入観がそうさせるのかも知れない。時間が許すなら再度、姫島産のものを見直していただければ幸いである。

 話は戻るが、出来れば火打石ではなく、縄文以前の石器で石材は、極めてローカルなペグマタイトに起因する灰色の石英であれば最高である。もし、火打石であればこれもまた面白いローカリティーな話題となろう。今度は、石英産出地近くの沢で礫を採集してみよう。

 マイリストに田川市夏吉の石灰岩からなる岩屋第一洞窟の写真を掲載したので、見ていただきたい。入り口は南西かな日当たりがよく、日光が少し差し込むようだ。県指定の天然記念物で調査は難しいだろうが、やるべきと考える。入り口は人の鼻の穴のように2つに別れていたが、一方を塞いでその上に階段を設けて入れる。もう一方は昔のまま、外から入るようになっている。洞窟の高さは、下方に水田があってそこから3~4mというところにあり、平地に開く洞窟で、見晴らしがよい。洞内堆積物は、地盤が黒色土で硬くしまっているため、何ら遺物らしきものはないし、動物の化石が出たという話もない。ただ、入り口前のテラスはやや広く、天井が崩落したようすがうかがえる。特に、向って左側にはその残骸の岩が積み上げられており、それをきれいにすれば、結構な広さの前庭部調査が可能だ。洞窟下の水田はすでに鉱害復旧等で整備されており、状況から洞窟前の斜面を多少削っている。何か出土したかもしれないのだが、情報が入らない。残念。

 最近、『旧石器考古学』71アジアの礫器文化というものを買った。韓国の石英製ハンドアックスがかなり紹介されているのに驚いた。実測図はともかく写真を見ると、まあ、よく出土しているのに驚き、年代にまた驚いてしまう。全谷里と金坡里くらいしか知らなかったが、近年、怒涛のように出土しているのか。春川錦山里出土の写真があるが、最も上の左2枚、その下の左2枚、さらにその下の左1枚、最下の左1枚、それぞれの写真を見て、もし、福岡のように浅く旧石器から中世まで一緒に出土するような土壌に、このようなものが出土した場合、多分お手上げでしょうね。縄文があればそこに含め、打製石斧や礫器として報告するだろうと、私なら思いますね。特に、石英製のものは当初から頭にないのだから、扱いは雑になってしまう。それでも、ピックのようなものがあればまだしも、最下の左1枚の写真のものは、自然破砕の礫として取り扱うかもしれません。

 東海平稜の写真の右端は、よく見かける白色の石英製ですね。また、東海九湖洞の左側は、これまた白色の石英で、扁平な亜角礫を使用しているのかな。いずれにしても、私だけでしょうが、黒曜石・サヌカイトに目を奪われるものですから、石英に届かない。韓国のものを見ると石英製でも大型で加工がはっきりしている。しかも、礫層あるいは河原から採集したような亜角礫や円礫をたくみに加工してしっかりしたものをつくっているように見受けられる。九州で言えば早水台が石英系の石材を多用しているようだが、比較するとやはり、うーんかな。

 仮に韓国あたりから動物群とともにわたってきたとしたなら、北部九州に足を着けるであろうし、何といっても石英は多いから、特別に石材を求める必要はないわけで、日本からどんどん実物を見に行った方がよいと思う。案外、見過ごしていたりして。

 それと、石球とかとかいう球形の石核は韓国の博物館で見ましたね。石枕のようなやつで、これも単独で石英製のものが出た場合、どうだろう。実物をガラス越しに見たが、あんな形状の石核は見たことないし、石英製で剥離も平面的なカットで、ひよっとして、よくて敲石、下手すればただの円礫かな。とにかく、旧石器の先生方、日本中で日々発掘やっている連中は、なかなか理解できないし、自然礫扱いすれば資料は、埋め戻されるか、持ち帰っても洗浄で終わり、選別からはずれる。それでも掲載すれば、実測図からは石器と判断されない図面が仕上がり、縄文あたりに位置付けられる。先生方も全ての報告書に目を通すこともないからそれで終わり。なんて悲しい道を歩む。

 ところで、国府遺跡から発見され喜田貞吉先生が報告した、例の大型粗製の石器は洞位置付けられているのでしょうか、ご存知の方は教えてください。

 6月14日日曜、今日は宮崎から藤木君がやってくる。珍しく土曜の夜に持っていくものを準備した。竹生島の暗灰色石英系の整った剥片が、はたして、火打石なのだろうか。彼のメールによれば1990年代に私と同じ場所に出没して採集していたらしい。私が1970年代だから20年くらいずれているかな。私は現職の身で嘉穂の発掘をやっていた。彼が回るならもう少し遺物を残しておくべきだったか、私の後にそのような人物(表採屋)が出現するとはいざ知らず、三島先生曰く「君たちが歩いた後は、草1本残ってないだろうね。」というくらい、徹底的に拾った。しかし、高橋池で最初のナイフ形石器を拾ったのはすごい。加与丁池なら分かるが、高橋池は難しい。というより、縄文早期の古式石器がほとんどを占めており、最もめにつきやすい。

 九国博で待ち合わせエントランスで現物を見せて、ご教示を得る。火打石の写真をファイルにして持ってきてくれており、それを見ながら色々の話になる。そこに、杉原君が合流して深ーいいい話に、杉原説は、石材がこれまで未確認であること、目的が明確でない剥片の使用、もし石器であるならスクレーパーが近いのだが、剥離がスクレーパーエッジをつくってなく、曖昧な剥離が見られる。そんなことから、石器ではないだろう。とするなら、火打石が最も可能性として考えられやしないかという。藤木君はしばらく現物をこねくり回し、何度も確認している。それは、火打石に特徴的なエッジのつぶれである。結局金属に打ちあてるのだから、剥離はエッジの表裏に出来る。私も小さい頃石英とヤスリで火花を出して遊んでいたが、角があるところを自然とぶつけていた。そして、出来るのはつぶれであって鋭利な剥離痕ではない。

 藤木君は、火打石に否定的で、形状自体が火打石にしては整いすぎている点、剥離面が裏面に集中している。今までの火打石には見られない石材などから、やはり、縄文早期といった古い石器ではとの意見。

 私は、石器であってほしいし、縄文早期や草創期あたりとも考えたいが、火打石ならそれもまた面白い。江戸期寛文年間に勧請されたお宮の裏側で戦国期の城郭、あるいは、鎌倉時代のお寺の遺物もある。否定は出来ない。そこで、思いついたのが火打石として例えば、お宮の勧請、あるいは、建て替え等などの行事の際に、その儀礼時のみの使用と廃棄といった短期使用というものを思いついた。

 ただ、疑問に残るのは、方形の剥片を剥いだ技術である。表面に残る剥片剥離痕、この本体を横長に綺麗に剥ぎ取った技法、どう見ても石器製作の時代にマッチしていると考えるのだが。火打石の写真を見るとこのように美しい、所謂剥片はない。あえて言うならガンフリントの美しいものくらいである。答えはいずれでようが、意外と姫島黒曜石で終わらせている例があるのでは。

 ちなみに、古処山系の千手川と遠賀川に河川の礫を見に行ったが、石英が99パーセントないのである。花崗岩地帯だが、お目にかかれない。変成岩が主であり花崗岩が次に、石灰岩も一部にあるが、特に暗灰色の石英はない。原産地はどこだろう。またまた、課題が残った。 藤木君夫妻と杉原君には感謝します。

またまた、竹生島の剥片のことである。飽きましたかね。というのも、昨日送られてきた北九州市の報告書『巧網馬場遺跡』の最後のカラー図版に、あくまで写真であるが竹生島の剥片によく似た石材の石器や剥片がずらりならんでいるではないか、それは何かとたずねたら、あー姫島、姫島、姫島。それどころではないですね。暗灰色で撮影の光源に対してキラキラ光っているように見えますし、どことなく手触りがざらつくような感じで驚いてしまいました。真実は闇の中ですが確認する必要はあるかと、その事は、杉原・藤木両氏に伝えました。姫島ならまず吉留さんに聞いてみようかとも考えています。

 仮に、姫島ならおそらく、おそらくですよ縄文早期の前半を含め、それ以前となる可能性があり、結構大きな真正の剥片ですから、原石の問題も含めて面白いかもしれませんね。これまた、中村修身さんが『史学論叢』39号に書かれた「縄文時代の生産と流通(再考)」に書かれている、姫島産黒曜石の福岡内陸部への搬入が前期あたりというのがもう少し遡る可能性が出てきますが、あくまで、まだ分かりません。

 中村さんには、度々お世話になっておりますが、笠置山の輝緑凝灰岩原産地の問題についで、やや意見が異なるかもしれません。今回は、姫島産黒曜石だったらの話です。

 それと、北九州市の旧石器出土層について今までとは異なり、阿蘇4といっていたローム系の堆積層(鳥栖ローム)が似て非なるものかもという見解が述べられていたような。申し訳ありませんが、パラパラめくっただけでしたのでよく読ませてもらいますが、そうすると、過去に鳥栖ロームに関連して年代を求められていた数々の石器類も異なる年代となるのでしょうか?それにしても、韓国によく似た石材がありますよね。辻田なんかで出てるものですが、そのあたりもどうなりますかね。

先日、山口の小南氏から連絡があり、竹生島及び桟敷原の剥片について興味をもたれていることが分かった。また、ご丁寧に抜き刷りまで送付していただきこの場を借りて御礼申し上げます。私としては、何度か書きましたが縄文早期以前と考えていましたから、桟敷原も混在であると決め付けていました。しかし、よく考えてみれば桟敷原は弥生前期の貯蔵穴でイコールで考えれば、弥生前期の剥片という可能性が最も高いわけですね。また、竹生島も弥生前期末~中期前半の土器片が落ちており、可能性としては弥生も考えなくてはいけません。そういった意味で、小南氏の電話に改めてハッとしたわけです。

 また、桟敷原はサヌカイトのこぶし程度の塊が入っておりますし、かつて、弥生前期の貯蔵穴群を調査した宮ノ脇遺跡でも、サヌカイトの石核と複数の剥片が出ていたことを思い出していました。

 7/21連休明け、福岡県教育委員会から報告書が届く。イラハラ(漢字をわすれました)ダムの報告書が楽しみで待っていた。吉田氏の調査で噂ではかなり縄文、さらに、それ以前の旧石器まで視野に入れて調査を行ったと。そこで、ダンボールに厚く堆積した報告書の層を一枚ずつ剥いでいくと、ほぼ中部ロームあたりからその報告書が検出された。めくりながら驚いたのは、突帯文土器の多いことと、丹塗磨研土器片があるのだが、石器を見ると縄文である。さすがに、内陸の奥深くに大陸文化は浸透していないのか、しかし、突帯文土器の文化を考える場合、大陸文化とつながった側面をつい捉えがちだが、意外と水稲耕作とは関係のない場所から出土する。畑作を考えればよいかもしれないが、それとは異なり縄文文化そのもので生活している突帯文土器使用者集団を考える必要があるのかも。一つに突帯文土器文化は、3つの姿を見せる。一つは大陸系石器類を伴うもので、佐賀や福岡の平野部に水稲耕作を生活の糧とする集団、一つは、およそ稲作とは無縁な内陸奥部の地に縄文の石器を伴い、おそらくは縄文の伝統の下に暮らす集団、最後は、突帯文土器と縄文の石器、それに、大陸系石器を交えた中間的な様相で、内陸の丘陵地などに暮らす集団、それら3つの類型がありそうだ。これは、黒川あたりからありそうであるが、今回の報告書に孔列文系のものはないようである。

 今回の報告書では、縄文早期の前半段階に相当する遺物群の報告は少なかった。第2段に出てくるようで楽しみにしている。今回、柏原式の土器が報告されており、類例は増加するだろう。

 ふと、ダンボール下層の下部ロームに九歴関連のものがあった。まずは、1号から黒色表紙のまま今に至る研究紀要で杉原氏の旧石器関連が当初を飾っている。これは、水城から出土した旧石器に関連したもので、地峡帯だったか筑後につながる狭小な平野周囲の丘陵や台地から出土した旧石器について書かれていた。水城の報告書にさすが旧石器が掲載してある。阿蘇4の上にレスの堆積がありその中に眠っているらしい。旧嘉穂町になるが上西郷の丘陵地には、阿蘇4が結構見られるようで、以前、下山先生に写真を見せたが3~4mの阿蘇4が火山灰そのものの状況で堆積している場所がある。灰色で変色をせずに見れる。また、聞くところによれば、数百m下の丘陵にも、上部が真赤な土でその下に白い土の層があって、その白土を取って団子にしていたらしい。これも、鳥栖ロームと八女粘土であろう。しかし、レスと見られる層に当たっていない。ご存知のように嘉穂盆地はすり鉢と言われ、飯塚あたりは海抜0mに近い場所がある。しかし、大隈町あたりで40~50mあり、多くの丘陵は覆っていたレスが流れたのか、かまぼこのような形が多い。台地があれば残っていようが、それがなかなか見当たらない。原田遺跡のある馬見の台地は、黄褐色のシルト層のような堆積層があったが無遺物であった。よく似た層が千手地区の九郎原にあったが、これも無遺物層であった。

 先日、本屋で何かの本を立ち読みしていたら、捏造事件以来、中期や前期旧石器を語ることすらタブーとなっているらしい。ところで、旧石器時代なる用語は、前期・中期・後期として使用されていたのが、今日、後期のみを取り扱って旧石器時代としているのは何故だろう。岩宿時代もなんだかピンとこないし、先土器時代や無土器時代、・・・プレ縄文、いやはや難しいものだ。なんとか、古い石器を出してもらえばいいのだが。韓国で古式の石器が続々発見されているようだが、九州の前に壱岐・対馬から発見されれば足跡が追えれるのだろうが。そういえば、原ノ辻からナウマン像の臼歯が出ていたがその方面の調査はどうなっているのだろうか。

 8月末から9月初頭にかけて、一丁五反遺跡で残暑厳しきおりにも関わらず、2週間の発掘調査を行った。中心は弥生中期中頃から後半で、方形プランの住居跡であった。期間が無く久々に唐鍬やスコップを使ったが、体がガタガタで時おり熱中症に近い日々が続いた。包含層が50cm前後と深く、その下に残りのよい竪穴住居跡、地下2m近くの作業で蒸し風呂状態だった。最も深い竪穴住居の床面より若干下層に轟式土器片が一片のみ出土、発掘区の南東隅には暗黄褐色の粘質土が堆積している。調査の最終日、その層を掘って見た。深さは30㎝前後で下層の花崗岩風化土になり、しかも、堆積の状況は、点在している。おそらく、窪みなどに堆積したためそのような状況がうかがえるのかと、スコで掘ると結構な粘質で絡みつく感じであるが、遺物は全く含まれていなかった。                  その後も竪穴住居の床面を掘り下げるなど時間の許す限り掘ったが縄文土器(後・晩期)の土器片が少量出土した。

 9月の連休2日目、再び表採に出かける。飯塚歴史資料館により須玖Ⅱ式の土器を観察、特に内側に湾曲させた口縁部や口唇のつくり、凹線の有無に注意する。立岩の土器棺しかなくその観察を行ったが、一丁五反のようなつくりとは異なっていた。その後、旧穂波出土の晩期の尖頭器が気になった。サヌカイト製で基部は円形に仕上げられており、長さは4cmほどだろうか、一度、観察したいものである。その後、表採に出かけた。行く先は縄文後期・晩期の遺跡として著名な、北古賀遺跡へ到着する。何度か訪れたが常に人がいてなかなか近づけなかった。いつも、地形を眺めるだけで引き返していたが、今回は幸いに人影なし。さっそく採集スタート、しかし、地面は耕作機械で耕され、その後雨が降っていないので、土は乾燥しきって小石すら露出していない状況である。

 これは、表面採集にとって最もいやな状況で、何度も雨に打たれていると、石は表面にむき出しとなり、浮いたような状態となる。その上、石が洗われ黒曜石やサヌカイトは比較的簡単に採集することが出来る。今回、残念だが耕したまま乾燥しているので、表面に現れていない。出来る限り畝をたてている畑を中心に回ったがようやくチップ1点を確認したに過ぎなかった。それより、畑に通じる軽トラック幅の道があり、そのへりに耕作中に出てきた石が捨ててあるのだが、ザット見ただけで4点ほどの打製石斧があった。そのままにしてきたが、さすがにその手の石器は多いようだ。

 ひょっとして旧石器が拾えるのはここだけかと考え行って見たが、まだまだ発見には至らないようだ。

 嘉穂盆地に旧石器を求めて何年になるだろう。見当をつけて行くのだがことごとく失敗に終わっている。過去の資料に明確な採集資料がないため、まさにゼロからの出発である。しかし、必ずあると信じてはいるが挫折を繰り返している。そんな時、藤森栄一、中村孝三郎両氏をはじめとして先達の本をくり返し読むのであるが、神子柴遺跡を発見した林 茂樹氏の件は勉強になる。見出しは「執拗であること」「伊那の石槍」「日本一の石槍-神子柴型石槍の発見」と順を追ってその努力が報われていく経過がよくわかるのだが、特に、「執拗である」というのがいい。旧石器のかげすらなかった不毛の地である伊那谷に「きっと見つけ出してみせるという執拗な意欲にもえて郷里の伊那へ帰任していった。」その後に、執念のたまものとして遺跡発見につながる。

 私のこれまでの探し方は、嘉穂盆地の中央平野部に向って延びる丘陵や台地に見当付け、それらをぐるぐると横断するやり方だった。盆地はすり鉢のようになっていて、盆地の中央部にかなりの土砂を堆積させている。このことは、飯塚市役所建設に伴い、地下数メートルから弥生後期の土器が出土しているし、川床の数メートル下方から縄文前期を最古とする土器群が発見されていることを考慮すれば、周囲の高地はかなり侵食されていることが想像できる。縄文早期の遺跡のあり方からして標高50~60m以上のラインを目安に旧石器の位置を探ろうとしているが、侵食が激しいだけに多くが細い半島状の尾根になっていて、いずれも山林が覆う。畑が少なく採集条件が整っていないのが現状である。

 そこで、基本に立ち返る意味から、遠賀川に注ぎ込む支流を遡ることにした。まだ、計画段階であるが、「執拗であること」を基本とし最初は泉河内川を標的としよう。

  ※ ビッグニュース

 英彦山の山麓に瑪瑙の原石が産出するらしい。ほとんど知られていないと思われるその場所は、油木ダムの東に位置する山の尾根にあり、昭和20年前後の頃に採掘されていたらしい。地質条件からすると瑪瑙は火山の周辺で珪酸分が高熱の作用によってうまれるらしい。英彦山は火山でありその周辺域は怪しいことになる。

 その場所から採集された瑪瑙の細かな破片を観察することが出来た。位置的には、瑪瑙の採掘坑(横穴)が2基ほどあって、その下に散乱しているらしい。いわば採掘後のガラ捨て場といったところであろうか、破片はどれも厚みのあるチップ状で細かい。ただ、その中に気になるものが3点含まれていた。採掘は新しくほとんどの破片は、割れ口が鋭くキラキラ輝いているのだが、2点は風化が見受けられ、稜線も鈍くなっている。1点は、細石核としてよいほどの物である。もう一点は、ランダムな剥離ながらやはり石核状である。そして、1点のみであるが、まさに、細石刃としてよかろうと思われるものである。

 もちろん、採掘場のもので偶然の産物の可能性が高いが、調査する必要があろう。特に、添田町は石材に赤色や緑色のチャートや一部に瑪瑙も含まれている。赤色チャートとしているものも瑪瑙の可能性もあろう。時期を見て山に分け入るつもりである。

 ちなみに、採集された瑪瑙のほとんどが縞瑪瑙で赤と白のコントラストが美しい。その他に黄褐色に細い縞状のラインがいくつも入るもの、やや黄色を帯びた白色のものも若干見受けられる。また、別の場所で採集したものは明らかに珪化木で、内部は茶褐色である。

 英彦山周辺の熱による変質によって生じたものであろうが、原産地候補として小さな点を記したのかもしれない。添田でパラパラと出土するチャートといわれるものについては、瑪瑙の可能性もあり、鑑定が必要かとも思われる。今後の展開が楽しみである。

 陽明学ではないが、実行にうつすのが心情。11月21日、早速、添田町の油木ダムから瑪瑙の採掘場所に向った。やや迷いながら車で行ける場所まで行って、それから徒歩で進もうと思ったが、車を止めたすぐ近くから軽トラックがこちらに向けて進んできた。

 なんとか、止めて地図を片手に場所を確認しようとしたら、私が進むべき道は私有地だという。こんな地図では分からないとそっけないが、去ろうとする気持ちは無いらしい。よそ者への警戒心だろう。道自体が私有地と何度もくり返す。あげくには、この道は別の道というのだが、地形図を見てとっさに答えられる人はなかなかいない。結局、知らない人は、自分の土地を通行するべからずと排除された。そっけないがおそらく善人であろう。最後まで、私有地を繰り返し入って欲しくないとは一言も告げなかった。こちらが、私有地だから通行できないんですねといって、初めて首を縦に振った。その後、その人物は、やや酒臭い息で急勾配の山道を軽トラックで登っていった。「あんたの土地かい」と、とっさに思ったが時代だろうか、私が怪しかったのか、受け入れてもらえなかった。 瑪瑙の道は遠いかな。添田の岩本に相談しよう。

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