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考古学こぼれ話

 なんと長い話が多いことかと思われていますね。きっとそうですね。この話も長くなりそうで、どうしようかと思いつつも書いていきます。37年間も飽きずに考古学やってますから、なんか面白い話あるよね。

 私があこがれていた旧石器研究を大学3年でやめた理由・・・英語と第二外国語が分からなかったから。しかし、それはやめる理由を探した結果自分が納得できる答えを探したまでのこと、当時、相模野や武蔵野方面で盛んに行なわれていた旧石器の調査に、ついていけない、また、調査にも参加したことがないという薄氷を踏む気分、いやだったなー。掘ったのは山形の月山沢遺跡のみ、何か取り残される気持ちがあったんだな。結局、古墳の終末をやって卒論でこけたわけ。

 今、弥生のレポートばかり書いているが、25年の蓄積で筑豊の遺物や遺跡にやや多く触れたに過ぎない。興味があるのは弥生以前にかたまったけど、結局、掘った経験しかないわけで、嘉穂地域でひいひいもの。旧石器と縄文草創期の遺跡をさがすこと。あと、筑豊の弥生をやりながら、弥生の社会なんぞに触れられないかと期待している。

 先日、川崎町の現場で黄褐色系の粘質土がたい積しているのに気が付いた。また、八丁トンネル関係の試掘調査でも同様の黄褐色系の粘質土を見ている。これがひょっとすると黄土がたい積した下山先生が何とか言っていたな。最近物忘れが激しい。その中に遺物があればいいのだが。

10月25日川崎の現場に立ち寄り、洞窟を探すつもり。見つかるかどうくつか?なんて書いていたら雨降りそうになってきたので迷い。

 旧稲築町かって塚古墳出土の鏡とそっくりなものが福岡市西区の砂丘遺跡で、方形周溝墓から三角縁が出たところなんだっけかな、まあいいけど、その地域から出ているらしい。方画規矩鏡だが、簡略化されていてTLVのTだけ。そこにデホルメが進行し形骸化してなにやら分からなくなった四神がくっついている。方形の区画もゆがみがある。鏡自体は非常に残りがよく完鏡である。そのデザインや区画のゆがみがなんとも似ている。ただし、紐の形状がことなり、かって塚は方形に突線が十字にはいり、紐の頭が小さな円形に窪む。上から見ると亀のようでもある。

 小林行雄先生が紐の形に非常に興味をもたれたようで、一時期調べようかという考えもあったが、いまだにそのまま。嘉麻市になり比較的見ることも多くなった今日、再検討の価値有である。

 今、松浦君が竹生島古墳の埴輪の整理をやっている。さっぱり私は分からないが、それなりの成果か出つつあるので、11月の古文化研究会には是非参加していただきたい。6世紀初頭の嘉穂地域がみえてくるよー。

 川崎の末吉君の現場で、旧石器の遺跡の立地が少し分かりかけている。縄文もそうであるが一つには、狭い谷がありそれが他の地域とつながるルート上にあること。しかも、旧石器遺跡が周囲のどのあたりに分布しているかを探り、そこと、ルートでどのように結ばれているかである。これには、古道を探る必要がある。川崎の木城は山奥であるが熊ヶ畑に抜けるらしい。手前は真崎で両者をつなぐポイントになる。

国土地理院の地図を検索していたら、何の事はない、嘉麻市の山田にある筑紫に抜ける道が500mばかりあって、おそらく、砂岩や礫岩の崖面があり、そこに洞窟があるのだろう。現物は見ていないが、上山田と大隈町の間に第三紀層があって、崖面が露出する場所を知っている。益富城の裏の谷にも洞窟がある。しかし、水が流れ出しており小さくて人が住んだ気配はなさそうである。また、山田側の谷の奥に小さな窟があり札所となっているところもある。したがって、洞窟の可能性はある。また、東向きのようで期待が持てそうである。

 発掘中に遺物がなくなったことが2度ある。1つは、昭和59年の巻原遺跡でのこと、国道211号線から少し脇に入った発掘区で弥生時代後期後半以降の器台(受部が袋状口縁)が関係で出土していた。夕方頃の出土で次の日に写真と実測を予定し、厚手のビニール袋かけ、竹串で周囲を刺してその日は現場を引き上げた。翌朝、現場に来るとビニールがはがれ、土器が消えていた。明らかに盗難である。

 もう一点は、実にもったいなかったのだが、中世の土壙内に7割がた完形の、民代の染付け椀が出土したことがある。そこは、かなり国道から離れた場所であったにもかかわらず、やはり翌朝消えていたのである。前日、出土した際に現場のおばちゃんたちに染付けの重要性を説明し、「よくぞみつけてくれました」と感謝の言葉を述べ、翌日に取り上げようと、今度はブルーシートをかけていたのだが、おばちゃんたちを疑うわけにも行かず、無念さだけが残った次第である。

11月5日 諏訪間からメールが届いていた。3日は、石器作りを多久市の岩永君にいらいして、ナイフ形石器、横剥ぎの翼状剥片、尖頭器、マイクロブレードと次々に作り出してもらった。久々に面白い催しで、みなさん満足して帰られた。4日は体調が悪く休んだ。5日に出てきたら、沖出古墳のふき石が壊されていたり、助成金の関係で写真を送れだの、請求書はたまっているし、行革の研修はあるで、なんじゃこりゃーの一日である。

 そこに、諏訪間が岩宿文化賞をとったというよい知らせが入った。これぞ吉日である。正直、全てに今疲れている。そんなおりの一筋の光に、しばし暖めてもらおう。

11月6日ぼちぼち書こう。といいつつ書き始めたら止まらなくなる。申し訳ないが昔から書くのは書くが、読み返さない。したがって読者には気の毒だが長くなる。

 嘉穂地方(盆地)に旧石器が入るルートを地図をにらんで見ている。一つは南ルートで日田盆地から東峰村経由で旧小石原に1ヶ所、小石原から尾根伝いに田川に向かい中元寺川方面に下ると川崎の現場、英彦山から英彦山川、油木ダム方面に下るルートは、縄文だらけ、縄文は山国川経由の英彦山越の各河川沿いに下るように思える。

 もう一つは、北西ルートで糟屋方面から八木山越で旧石器が入るルート、これは全くの未開拓、採集できるなら黒曜石やサヌカイトのものが見られると思う。次の機会に飯塚市伊川に舌状の台地あるいは丘陵がある。そこをねらうか、八木山のどこかに求めるかである。また、米山越あたりも大宰府や二日市方面とつながっており興味がある。ただ、旧筑穂町の発掘では出土していない。とりあえず、糟屋方面からの八木山ルートをねらう。

 諏訪間ちゃん面白いだろう。小生まだ学生気分が抜けないぞ、熊谷の台地を歩いていた頃のまま、変ったのは自動車を使っていることと、髪が少なくなったこと、メタボに乱視、時々昔の本を取り出すよ。芹長さんの「石器時代の日本」にはじまり、中村孝三郎、藤森栄一、そうそう、最近「丹生遺跡」を買った。藤森さんの「旧石器の狩人」は何度読んだかな。一つ恵まれている点を知らせておきます。石灰岩地帯が近くにあることかな。直良信夫もいいね。「ミネルバ」を時おり読むね。

 田川の香春町にある香春岳は、古代の豊前国風土記の逸文に登場するようだが、1~3の岳の何れからも竜骨が出たらしい。それと、絶壁があり岩陰遺跡や洞窟遺跡もありそうで、今からが楽しみである。もう一つ、田川市の夏吉だったか鍾乳洞があり、ここにもチャンスがありそうである。

 そういえば、日本の洞窟遺跡だったか、復刻版があるようだがしらべてみよう。山形県庁の分室でよく見ていたものだ。それと、佐々木洋治さんの高畠町史の考古編はチャンスがあれば手に入れたい。これも、よく眺めていた。

11月9日掘ったバイ筑豊に何年ぶりかで顔を出した。昨今は田川地区の発掘成果がよく発表されており、少しずつ遠賀川水系の考古学的調査が進んできている。講演は亀田修一先生で、「古代の筑豊」特に渡来系の遺構や遺物を中心に話を進められ、勉強になった。私も過去に赤銅遺跡(千手地区)で古墳時代初頭の竪穴住居跡から古式土師器とともに格子状の叩き目のある軟質土器の破片2点を検出している。しかし、古墳時代以降の勉強はやっていないのでわからないが、弥生・古墳・古代へと連続する何かがあるように思う。

 それと、嘉穂盆地における立岩地区の重要性を改めて感じるのは、宮ノ脇・寺山といった前方後円墳と装飾古墳を含む川島古墳群の存在と井手ヶ浦窯跡群の存在である。弥生後期から古墳時代の前期・中期とそれほど目立つ動きのない地区であったのだが、古墳時代の後期になり周辺部も含め再び活気を取り戻す様が遺跡を通じて伝わってくる。もちろん、なりをひそめているとはあくまで現状であり、今後何が発見されるかは分からない。少なくとも、弥生後期中頃あたりでは、地下数メートル下に埋もれている。調査も困難であるが、いつか、その空白が埋まるかもしれない。

前方後円墳の分布を見ると、古式古墳が沖出古墳のグループ(4世紀代)と桂川の古墳グループここに金毘羅山(4世紀代?)がどうなのか、また、山の神古墳を含む穂波のグループが忠隈古墳(4世紀)から引っ張ってこられるのか、そして、桂川と穂波のグループとの関係で、6世紀には桂川に集約されそうであるが、それと、飯塚の川島一帯にある宮ノ脇・寺山グループで6世紀を中心とする。これに、後漢鏡出土地を重ねると、沖出付近で夔鳳鏡と牛隈道免の鏡式不明の舶載鏡がある。穂波グループでは内行花文鏡がある。桂川と川島付近では検出されていないが、今後のこともあろう。

 4世紀代の古式古墳は、弥生後期の勢力と連続性を持つように感じるが、6世紀前後のものは別途の理由があろうかとも考えられる。寺山と井手ヶ浦窯、川島古墳の装飾。王塚も装飾がある。6世紀初頭の屯倉の成立も考えると、鎌・穂波が重要箇所として中央に認識されていた事は間違いない。そこに、6世紀代の前方後円墳群がかたまり始めるのも面白い。弥生後期からの空白とも言える期間を過ぎ、再び立岩地域が中心的役割を担い須恵器工人をかかえる。

 農業生産中心となれば、当然まとまった平野部を有するという地理的条件が必要であるが、石庖丁や須恵器などの生産と交易を主体酢とする場合、条件は立岩地域がにぎっているようである。古代になり官道が大分から田川の天台寺方面につながるのだが、まさしく、往来と易ルートの正式な確立を見ても立岩付近は重要ポイントである。古代末~中世にかけて、よくその名が登場する立岩の別府も関連あるのかもしれない。

 私は筑豊の弥生以降を考える時、必ず立岩に始まり立岩に戻るという大原則と農業生産とは異なる生産によって成り立つ場所、つまり地の利を得る場所が、立岩と認識している。もし、金属器生産があるなら立岩となるわけである。言い古されているが交通の要衝である。

 ここは、こぼれ話でしたね。元に戻ることにします。

 最初の発掘では、夏場の地面乾燥に悩まされた。今なら、全体にシートを張って乾燥を防ぐが、当時は、そんな数のシートも買えないし、置くところもなかった。1階建てのプレハブ1件で、そこで何もかもっていたのだ。道具もそこに置いていた。そこで、おばちゃんたちに相談すると、エンジンで水をくみ上げてふりまく噴霧器をキャリーにのせて持ってきてくれた。さすが、地元のおばちゃんで農家軍団である。

この現場に柳田さんが手伝いに来てくれた。まだ、免許取立ての頃かな、なかなか、バックが出来ないともらしていた。実測をしてもらっている時、呼びつけられ「これを見なさい」と指をさした。そこには、古墳時代後期の竪穴住居跡があるのだが、中に残された遺物(ⅢBの須恵器片)がその住居よりひと回り小さな方形をなしてまるで平面プランのように見えている。「一軒の住居の壁をとばしたな」と指摘されていた。その通りで、同時期での切り合いであった。

 榎町遺跡では、発掘中に縄文土器が出始めた。断片的であるが後期の磨消縄文が見受けられる。福岡に来る前に縄文は出ないぞと言われていた。しかし、石鏃など縄文の遺跡が点在している事は、中学生の頃から知ってはいたが、土器がない。福岡市が発掘していた蒲田のあたりで、土壙内に北久根山の土器が出ていた記憶があった。当時は縄文とは分かるが何式かは分からなかった。つまり、福岡では縄文の遺跡をまともに掘れないという前置きが頭にあった。そこに、初めて掘る遺跡で、パラパラと縄文土器が出ているのである。しかし、数は極端に少ない。当時、福岡市の方でいくつか縄文の遺跡が調査されていて、報告する際の参考になったが、東北と比べあまりの少なさに東日本と西日本の違いを肌で感じていた。

 つづく勘高遺跡では、いきなり、縄文晩期の遺構を検出土壙だったが、石鏃や礫器、土器と遺物を包含する遺構だった。そこは、中世初期頃の環濠が検出されたのだが、その遺構内から出土した遺物を洗っていると、なんと、山形の押型文土器片が数片含まれていた。その後、調査区外から箱式石棺が出るやら、現場に出ていたおばちゃんが、工事中に見つけたといって、鐘崎式の結構大きな破片を持ってきた。後になって考えると、低位段丘上に黄褐色のシルト層が一面に広がっていたのだが、あれは、アカホヤ層の関係かもしれない。その下に、かなり、早期の遺物が眠っていたかもしれないのである。その証拠に、九歴の岩瀬さんが特殊遺物として分けていた中に、刺突文土器、条痕文土器、格子目の押型文土器が含まれていたのである。

 アカホヤを見たのは、勘高遺跡の川を挟んだ西に位置する中位段丘上にある藤ェ門畑遺跡での発掘の際に、オレンジ色の数センチの層を確認した。その中あるいは直下に、塞ノ神式、田村式など早期末頃の遺物がかなり出土して、遺構らしきものの検出も行なった。「へぇー、これがアカホヤか」というのが感想で、指先でつまむと湿気を少し含み固まる。微粒子でオレンジ色たった。

 標高80mあたりからぼちぼち早期の遺物が検出され始める。遠賀川の最上流では、この標高がポイントとなるようだ。千手地域でも同様のことがわかる。

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