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立岩遺跡にはじまり、立岩遺跡に終わる。「中村さんへの回答も含めて」

最近、中村修身さんから石庖丁に関するレポートの抜き刷りをいただいた。中村さんは、一貫して立岩石の庖丁製作所址とその製品の配布、あるいは分配に対して異論を唱えておられる。特に、遠賀川以東の北九州地域における各村々による製作を強調されている。

 ご存知の通り白亜紀後期の火山活動活発なりし頃の状況を示す下関亜層群に相当する火山系の岩石で、(下関亜層群は筆者の間違いで、以下の立岩を論ずる場合には、白亜紀前期の脇野亜層群中に含まれると訂正しなければなりません。)小豆色の凝灰岩を素材とする石庖丁等の石器が、飯塚市立岩遺跡群で専業的に生産され、北部九州のあちこちに搬出されたという、学会の定説的見解に対する反論である。(特に、農業生産の向上に伴い生産規模の拡大化に比例して、石庖丁等の道具類も量産し、さらに、使用等による破損等を補う必要性からも、量は増加すると考えたらいいのでしょうか。)

 この下関亜層群(これも誤りです。関門層群とすべきでした。)の分布は、遠賀川以東地域で福岡平野や筑後方面には見られないようであり、小豆色の石庖丁がその地域等で出土すれば、立岩製品かとおもわれるほどである。近年、遠賀川流域の各遺跡から石庖丁の未製品等が点々と出土しており、立岩オンリーでない事は、どうも真実らしい。(遠賀川中・下流域での石庖丁製作は集落単位で行われ、原材料もまた、広範に点在する関門層群と訂正します。)しかし、点在する北九州地域での未製品が自村消費かそれ以上に製作し他地域へ搬出しているのかは見極めねばならない。(北九州地域での原石及び未製品の検出は、各集落単位で石庖丁等の製作に当たっており、自村消費目的としたものと考えられる。一方、立岩はどうであろうか、自村消費の証拠である使用された石庖丁が大半を占める出土状況にあり、中村氏の一覧表に完形品27・欠損品37の計64点が示され、6遺跡で確認されている。主に焼ノ正・下ノ方・川島(川底)である。立岩使用数64点に対して未製品(完形・欠損を含む)は、総数1488-64(製品)=1424、1424-566(剥片)=858点(完形・欠損を含む)となる。この858点という未製品数をどう理解するかによって変わってくる。これを8遺跡で単純に割れば1遺跡107点余、製品も8遺跡で割れば8点となる。単純計算数未製品107点対製品数8点の比率を、自村消費の製作遺跡として当然な比率と考えるか、未製品数の量を多いと考え、そこから製作品の量を想像して、立岩外に搬出されたと考えるのかということになる。前者であればスムーズに北九州諸例と比較できる。しかし、後者であれば単純な比較は出来ないと考えた。だから、最初にそこの見極めが必要と書きました。なお、この時点で集落間の分業などとは一切記していないし、考えてもいません。)

 中村氏のレポートで立岩を含め北九州域で出土した石庖丁等の未製品の一覧が掲載されているが、残念ながら点数が分からない。かつて、中村氏は地域相研究の中で1991年版の中で飯塚市立岩地域出土石包丁と未製品の数を数えて1500点ほどの点数を示してある。ここに提示されているのはほとんどが採集品であり、正式に発掘されたものは極めて少ない。(1980年考古学研究に中島茂夫というペンネームで書かれた一覧表を使用しておられますね。おそらく堀田遺跡までは含まれますがその後の下ノ方・焼ノ正等は含まれていないと推定しました。そうすると未製品は100点ほど増えます。また、一覧表は採集品が多いからだめだとは言っていません。中山先生あたりから繰返されてきた調査等も踏まえますが、資料の多くはやはり採集品が多いのではないでしょうか、時代性や立岩調査の歴史から考えて当然のことと理解しています。だから、逆に今日のような大規模調査の網がかけられれば、さらに多くの資料が得られ、遺構等も確認できたであろうがそれは叶わぬ夢として受け止めています。なお、表の見方について何度も説明したとありますが、この表の示すところが稲作農耕の補完資料となるか、あるいは、私のように逆にこんなに未製品の資料がありながら、製品の少なさを考えたり、生産はしているが原石の持込がなく、第一行程(粗割)の資料もわずかやなーと感じます。思うのですが、数値がならぶ表からは、もっと自由に読み取ってもいいのではないでしょうか。)

 にもかかわらず大量の製品・未製品・欠損品である。(時代性と立岩の調査の歴史とを考え合わせても、特に、未製品の量が多いと思っております。先にも書きましたが、そこで、不可能ながら前面調査がもし出来たらと書いたわけです。)とするなら、手立岩遺跡群と呼ばれる範囲を完全にむ前面調査すればどれだけの資料が得られたであろうか。どうも、弥生中期に集住という周辺集落からの移動であろうか、大拠点集落の形成が明らかとなりつつある。この立岩もそうであり、嘉穂地域各所の遺跡数減少に反して川島の川床の遺跡も含め、立岩丘陵一帯が一大拠点となったようで、その中心に石庖丁等の製作があると考えている。

 (中村さんのレポートの取り扱いに対して、非常に失礼のあったことはお許しいただきたい。しかし、笠置山における石庖丁の原材料を取った場所を教えて欲しいと書かれ、筑豊に住む私は「それなら」と現地踏査を行ってそれらしき場所を千石峡で見つけたたため、それを報告するレポートを近々にも掲載いただきます。中村さんはご自身で山頂部付近での剥片散乱を確認しておられる。調査の必要を感じると書かれた後に、縄文時代の黒曜石採集と同レベルとお書きになっているが、立岩の問題を引きずっているのは、1つは様々な事情で立岩遺跡群の調査が広範囲に出来なかった点と原材料産出地と知られながら、今日に至るまで笠置山での踏査及びそれに基づく調査がなされなかった点が大きい。中山先生が指摘されたにもかかわらずである。私も最後に一言いわせてもらうなら、「発掘が出来る者のおごりと言われはしないだろうか。現状の資料を問題意識に沿って点検をする事が大切であり、大きな実りを得ることにつながる。」と『史学論叢』40号の中に書かれておられるが、中村さんの発見した山頂部、私の発見した山麓部をも合わせ、さらに踏査して全体の状況を把握した後に、中村さんもお考えの調査の必要性を実施に移して後、きちんとした結果を基に判断することが、縄文の石材採取と同レベルなのかどうかを決定付けるものと考えます。それが現状の資料を問題意識に沿って点検をする事になりはしないでしょうか。また、今後、立岩の研究に加えねばならないのは、立岩遺跡群の石庖丁関連資料が年代的にどう推移するのか。もう一つは、立岩周辺の諸地域つまり、嘉穂盆地内での石庖丁の分布や数、生産の実情などを1980年代以降急激に増加している大規模遺跡調査の実態によって調査が可能と考えています。1980年代以前は立岩の調査が代表的でしたが、周辺地域との比較が出来ませんでしたから、自然と他地域の生産遺跡との比較となりましたが、現在はかなり資料の蓄積があります。嘉穂地域の中で立岩はどうなのかと言う状況を踏まえた上で、その他の地域との比較へと進むことが可能かと考えています。そこで、嘉穂地域内の石庖丁出土状況の資料を送付した次第です。)

付加え:中村さんは「飯塚市立岩地域出土石庖丁およびその未完成品出土地点別数量」という一覧表について、どのように把握すべきかという点を丁寧にご教示いただいた。また、それを作成するまでの経緯を踏まえていただいた。1980年までに集計された労作である。小学校時代から表の見方を習い、試験もその通りに回答することが模範とされた。しかし、穿った見方かもしれないが、大人となった私には、数値を示した表から読み取るのは、先生が必ずしも教えた通りではない。そこから、別のものが読み取れるのも数値の表と考える。また、私は立岩丘陵上の字名からつけられた遺跡が、そもそも個々に存在しているとは思わない。特に、焼ノ正と下ノ方は、中山先生の報告書に記してある地形図を見ると、遠賀川に緩やかに張り出す一連の地形で、そこに、細い道が入り込む。もちろん、後出のもので、それを境に字名が焼ノ正と下ノ方に分かれている。それが2つの遺跡なのか、一連の遺跡なのか、その解釈は微妙である。私見は一連の遺跡で1つの集落をなすと考えている。また、嘉穂地域において展開されてきた1980年以降の大規模調査を経験した私の目には、一覧表の数値は特別に見える。あくまで、嘉穂地域内での関係ではあるが、未成品の数が著しく多いと映るのである。

 ちなみに、旧嘉穂町で相当弥生集落は発掘したが、未製品は1~2点くらいか、おそらく嘉穂地域は農業主体で、鎌田原や原田といった青銅器出土遺跡間で存在するが、石庖丁は作ってない。むしろ、北と南の筑後方面における小豆色の石庖丁に注目されよう。何故なら、遠賀川流域や北九州地域とは比べようもない広い平野を有しており、立岩の目がどちらを向いていたかである。ちなみに、甕棺は北筑後辺りから入ってきており、これが大きな交易の道と考えている。甕棺の分布から見ても嘉穂地域が東限であり、北九州や遠賀川下流域とは一線を画している。商売相手は、石庖丁を手に入れたくとも入らないが、裕福な耕地を有している地域を対象としなければ儲からない。財力を蓄積するには欲しい相手と取引しなければ意味がない。下関亜層群(関門層群の誤り)の分布地域との取引は懸命ではないと考える。

 立岩と笠置山との関係を見るとき、どのコースで運ばれてきたのか、これも重要である。必ず遠賀川を横断しなければ、たどり着けない位置関係にある。そのような時、可能性として渡りやすい場所の特定が必要であろうし、季節的にも水量が少ない時期ということも考慮しなければならない。そこで、目をつけているのが川島の殿ヶ浦遺跡である。ここは、縄文後期の完形土器が2点出土したことで有名であるが、河床から2~3mで弥生の包含層に当っており、前期の完形壺をはじめ148点もの石庖丁の未製品等を採集している。地図上で行けば立岩丘陵から、殿ヶ浦遺跡辺りから対岸に渡れた可能性はある。そこから、本町・津島・中・庄司を抜けると直線的に笠置山にたどり着く。みなさん、千石峡のほうに目を奪われるが山の東側には、遺跡がないのであろうか。笠置ダムや相田あたりで採集されたことはないのであろうか。

 今山と比較するわけではないが、輝緑凝灰岩も質の良し悪しの区別があろうから、川の転石にたよるより、よい露頭を見つけるほうがはるかに効率的と思う。ただ、山頂部が戦国期の山城となっており、削られている可能性はあろう。層位的には、山の下方は、古脇野湖に堆積した頁岩系の石で、淡水性の生物の化石を多く含む。したがって、輝緑凝灰岩の層は上半部にあろうかと予想される。また、企画性の高い良質の製品を製作するなら、質のよい露頭からある程度の加工(荒割り)を加えて運び出したほうが効率的である。そんなことから、東側の山腹や山麓の踏査を行なう必要があると考える。

 川島は立岩丘陵からの流れ込みとも考えた時期があったが、鯰田や目尾の川床から出土したとは聞かない。また、高畑や柳本遺跡では後期の土器が出土しているが中期の土器や石庖丁未製品の出土は内容であるから、川島の殿ヶ浦遺跡は、低地への石庖丁製作遺跡の広がりと、原材料の調達という点で重要なポイントに思える。

 4月12日(土)飯塚市笠置山の南東山麓を散策する。標高452mのこの山は、ご承知の通り中生代の湖成層(頁岩系)の上に脇野亜層という小豆色の凝灰岩層から成立している。山頂部は小豆色の輝緑凝灰岩が見られるようであるが、千石峡側や今回の南東部附近(笠置)は、頁岩系の岩肌しか見られない。今日も途中まで昇ったが、かなりの急傾斜で露頭としてあるいは転石として確認されるのは、ほとんど、頁岩系の石である。

 当山は、かなりの急傾斜で山頂部に達するもので、山腹にはいくつもの開析谷が形成されており、山頂部附近から山腹にかけて、岩盤の崩落塊を山麓へと押し流すようである。したがって、山腹での堆積は見られず、もっぱら、崩落の塊は砕けながら山麓に移る緩やかな傾斜地に堆積するようである。つまり、谷ごとに小さな扇状地のようなものが作られているわけである。そして、そこから流れ出す河川によって河川流域に運ばれるようである。

 千石峡側は何度も化石採集で行っており、山間の沢にも入ったことがある。そこには、沢の両岸に大きな輝緑凝灰岩の塊が頁岩や土砂と共に堆積している光景が観察できる。しかも、崩落後の堆積であることからそれほど摩滅風化した様子はなく角張っている。これは、南東部笠置も同様に厚い堆積層が見られ、それが崩壊しながら流れ出した輝緑凝灰岩が河川中に点在するものの、水流によって摩滅している。

 輝緑凝灰岩を採集しようとするなら、山麓の堆積層かその附近の河川であれば、結構大きな塊が採集できることが分かった。私は、今山のように露頭を求めたが、400mの山頂部まで登らなければならないと気付いた。それより、山麓で求めたほうが合理的である。これは、あえて言うまでもなく諸先輩方のおっしゃるとおりである。

 さて、そこから立て岩までどのように運ぶかであるが、板状に割れやすい性質、粘性があって軽いという特徴から、最終地点で粗割り加工を施し、板状の原材料にして運んだと想像される。つまり、沢や河川といった場所で粗割りするため、剥片やチップは水流に流されてしまうため、証拠が残らないわけである。これは、仕方ないことであろう。このシステムは大量生産体制に入るほど徹底され、企画が整えられたと思われる。最初の段階である程度規格化した大きさ等にすれば、大量に運べ、しかも立岩に運んでからの加工の無駄も省けるというわけである。中期後半期と推定されている石庖丁の専業化は、生産工程の無駄をかなり省いたと考えられる。だから、この時期立岩では生産量が増加しているにもかかわらず、未製品や欠損品、剥片やチップが少ないのかもしれない。

 反対に、自己消費のために生産している遺跡では、原石を運んだり、大量の剥片等が見られるのは、基本的に専業でないため、立岩のように生産ラインの無駄を省いてスリム化する必要がない。よって、昔のままのスタイルで続けているといえないだろうか。例えば、遠賀川下流域で点々と見られる石庖丁生産など、後期前半の大坪遺跡などは、まさに、前期末中期初頭の生産活動を継続しているのではないだろうか。

 もう一つ、笠置地区に飯塚市の霊園があるが、笠置ダムも含めて立岩のような丘陵地帯であるにもかかわらず、物が拾えない場所である。それが、霊園の一角ですでに造成されているが、輝緑凝灰岩の剥片やチップが結構落ちている場所を確認した。石庖丁生産と関連するかはわからないが、そういう地点がある事はこの先面白いことがわかるかもしれない。笠置山麓から谷伝いに運んだのか、それとも丘陵上に営まれた小集落をつなぐ゛道を通ったのか、段々面白くなりますぞ。

 ここで、基本となる問題を解決する必要を感じている。それは、今山のように原材料採集地点で研磨に至る寸前まで加工してしまう場合、これを仮に今山型と記す。それから立岩のように、おそらく、原石から一度程度の粗割りしたもの、石材の性質から短冊状に割れると思うが、それを6kも離れた加工場である立岩丘陵とその周辺まで運搬する場合、これを立岩型と仮称しておく。何れも原石を集落に運んでない点は注意を要する。中村氏が引き合いに出される岡垣町の大坪遺跡は、何十キロもの原石や石核が運び込まれており、第一工程から開始するというものであり、立岩と同列に並べる事には抵抗がある。私が専業集団として今山・立岩が確立するのは、原材料の確保から運搬、加工、半加工で出の搬出、製品での搬出とが、一連で行なわれているかどうか、そのあたりから確認し、特に、今山型と立岩型の相違点を石材の材質や特徴にある程度左右されるのではないかという着眼点をもって、論題としながら進めたいと考える。言わば、レポートであり、まとまれば、九州考古あたりにでも投稿したいと考えている。まとまればの話であるが、古くて新しい問題か、再検討の余地がある問題として考えている。

笠置山麓で輝緑凝灰岩の露頭と原材料を採取した可能性のある場所を発見。中村さんそのうち場所を教えますよ。立岩は原石で運ばないのですよ。粗割をした後にスリム化し加工場での作業を合理的に進めるようです。それが立岩です。

現在、執筆中で九州考古に掲載をお願いするつもりです。

5月2日金曜日に、九州考古学会に提出しました。予約が一杯ではじかれるかもしれませんが、15ページ程度のボリュームです。福岡地方史研究45に弥生集落の動向を追った論考を提出しました。その際に、福岡もそうですが嘉穂地域の集落や墓地の存続状況をグラフ化すると中期前半をピークに減少傾向になり、中期後半から中期末にかけてはかなり少なくなってしまいます。私のフィールドは、旧嘉穂町で、さんざん集落や墓地を掘ってまいりましたが、全体の実情とあっています。論考では後期前半期の高三潴式期において各集落が壊滅的打撃を受けるという状況と、後期中頃から再び集落が進出し繁栄するというもので、この考えの根底には小沢佳憲氏の論考がある。そこで気付いたのが立岩だけは中期後半から末にかけて繁栄の一途をたどるという事実で、周辺地域が減少するのに何故立岩だけがという疑問点に当たった。

そこで、今回の古文談叢に掲載されるが、弥生時代の地域社会の動向についてということで、もちろん嘉穂地域における社会の動きを追うことにした。岡崎 敬先生が「立岩遺蹟」のまとめとして、地域の統一と分散という内容で、嘉穂地域の動向がまとめられたが、それをトレースしながら、1980年以降の大規模調査による立岩周辺で明らかとなったことを加味しながら、集落・墓地の両遺跡を資料にして書いたものである。24ページくらいのボリュームとなったが、そこで気付いたのが、中期後半から末にかけて立岩周辺の遺跡数減少傾向に対し、立岩丘陵を中心にその周辺に遺跡が広がっている事実である。しかも、川島の殿ヶ浦の川床から土器と共に多量の石庖丁未製品が採集されている。縄文土器の完形品出土はよく知られていたが、弥生遺物は正直知らなかった。しかも、川床であり流されてきたとも考えられる。しかし、縄文土器と同様にローリングを受けていない。これは、低地で石器が製作されていた証拠であると確信した。しかも、その位置がよい。立岩遺跡から川島、笠置山を結ぶとほぼ直線である。ここに、「笠置山から6キロ離れた立岩遺跡で石庖丁等の石器が製作された。」というどの本にも記載されている内容が明らかとなる。

 つまり、立岩丘陵と周辺地、川床となっている低地も含めて集落が拡大化している事実が読み取れる。これが「集住」現象なのか。つまり、立岩での石庖丁製作の量産化にともない、周辺集落から労働力として迎え入れられた結果、一極集中化が発生する。もちろん、原材料採取、運搬、製作のどれをとっても立岩における自然人口増ではまかなえない。しかも、一極集中化することで食料の供給が必要となる。「立岩遺蹟」にも記されてるが、丘陵周辺の狭小な田に水田では話にならない。食糧供給もまた周囲から行なわれる必要があった。という内容である。よかったら、読んでください。

 さて、今回投稿たものは、立岩で専業的に石庖丁が作られたことを、一貫して否定してきた中村さんが最も最近かかれたもので、内容も、その信念を貫かれており、ご自身からいただいたものである。以前なら面白いと感じたが、立岩における石庖丁製作が想像以上に壮大なものであることが、すでに想像されていたことから、くしくもそれがきっかけとなって、中村さんに反対意見をぶつけてみたくなった。

 中村さんの決定打ともいえる内容で、註の最後に書かれているが、立岩で専業的に大量生産されたなら笠置山に原材料採取の痕跡があるのか、あれば見せてくれという意味のことが丁寧な文章で書かれている。この決定打にクロスカウンターを見舞うには、笠置山で証拠を探さねばと思い。中山平次郎、森 貞次郎両先生あたりから論考を読み返し特に下條さん、高島さんと調べたが、中山先生が提起され、森先生が笠置山を原産地と認定したのが、昭和14年である。その後数々の論考に記された内容は、残念ながら現地踏査を踏まえているものでないようである。千石峡の八木山川河床には、それほど輝緑凝灰岩は落ちていない。特に、薄手の手頃なものとなるともっと少ない。また、74年間採集と発掘が繰り返された立岩の地で、原石に遭遇した話を聞かない。河床転礫をとぼとぼ拾っていても、中期後半に拡大化した量産体制に追いつく材料の入手は困難である。そういう点を踏まえた中村氏のカウンターパンチであった。

 しかし、現地踏査で原材確保の場所と第一工程まで行なわれた状況がつかめた。まだ、どなたの承認も受けておらず瓦解する恐れがあるが、それを恐がっていては先に進まない。したがって、笠置山を森先生以来ではあるがまな板の上にのせ、論議の的にしたかったというのが本音である。「河床の転礫を使用した」という常識を再検証する時がおとずれていると思う。立岩はけっして今山に劣ってはいない。そうでなければ、須玖Ⅰ式で終わる今山に対し、須玖Ⅱ式がむしろ最盛期という立岩がどうのとはいえないと思う。立岩の残念なところは、採集品がほとんどで広範囲な発掘調査が出来なかった点で、今山は最近もやっているという違いである。立岩を見直すチャンスにかけたい。

 昔友人の橋本(橿考研)の結婚式に、諏訪間(小田原市)と参加した時のことであるが、工楽さんがビールをつぎに来てくれて、「飯塚の方から来たの」と聞かれた。それを確認した後、すぐに児島先生はお元気ですかと聞かれた。なんでも、学生の頃は弥生をやる人間は立岩参りといって飯塚の地を訪れ、児島先生に何がしかのお世話になったと聞いてうれしかったことを覚えている。児島先生といえば、亡くなられて何年になるだろう。原田・鎌田原量遺跡の発掘を見ていただいてよかったと心から思う。一つは、原田の小銅鐸が出土した時、先生いわく「わしゃすぐに飛んできたかったが、新聞報道の後にしないとあんたに迷惑をかけるから」と9時過ぎにはこられた。いざ、小銅鐸を目の当たりにした先生の顔は別人のように厳しく、嶋田さんに計測を命じていた。終わると丁寧にお礼を述べられ、もとのにこやかな先生に戻られた。蒲田原では、報告書にも書いているが「たていわいらいやなあー」と下顎を指でなでながらニコニコされていた。その年の、展示会(後に掘ったバイ)の覗きケースに並ぶ青銅器や玉類を飾り付けする時から、私のそばにずっといらした。思い出は尽きないが、話を元に戻そう。

 石器製作の自己消費型の遺跡を調査したことがある。アナフ遺跡といって弥生中期中頃から後半期の集落遺跡だったが、そこでは、縄文以来の蛇紋岩系石材で扁平片刃石斧を製作しているのである。おそらく、石剣なども作っていたのだろう。そこでは、河原石と考えられる原石が出土し、製作途中の未製品も出土している。しかし、量的には立岩の足元にも及ばない。自己消費的石器製作は、ある程度継続していたようである。しかし、石庖丁は、立岩製のやや大型のものが2枚と1枚は砂質頁岩か、3枚重なって出土している。偶然、バックホーのバケットに入ったが、ビット状の遺構があり、埋納の可能性が高い。同様のもので、旧嘉穂町千手の古屋敷から大型石庖丁3枚がまとまって出土したのが戦前と聞く。山奥で弥生人の居住地とはおよそ縁のない場所であるが、ここから、旧八丁を初めとする峠越えの道があり、江戸期には秋月藩の郷足軽が居住した場所である。1枚は伊勢神宮の神宝館にあると聞いた。他の2枚は発見者の自宅でおばあちゃんに見せてもらったことがあるが。2枚は明らかに輝緑凝灰岩製で厚味のある大型のもので、両端の刃部が鋭利であったことを覚えている。3枚を埋める事は何か意味があるのだろうか。立岩製品は、筑後方面に多いと聞く、道は峠越えだろう。無事を祈願しての埋納か、宗教的な意味があるようにも思える。

 藤田 等先生は現在飯塚市に居を構えられ、何かとわたくし達をご指導くださっているが、1979年に分業論というテーマで『日本考古学を学ぶ』(2)にお書きになっているが、その中で、立岩の製品が、遠賀川の中・下流域へとは流布せず、地理的条件の悪い西北~南方の山塊を越えて流布しているとし、理由として、中・下流域は自己消費型の石庖丁等の生産が行なわれいた点をあげている。立岩専業集団が独自のルートを持ているのではなく、あくまで福岡平野の共同体連合を主要な交易の対称とせざるわえなかったし、大陸の文物もこのルートを通じなければ入手することはできなかった。と書かれている。

 地理的条件の悪い西北~南方の山塊ルートを越えて入手したものに、今山玄武岩製の石斧が先ず上げられよう。近年、桂川町土師地区を中心にその集中分布が確認されたが、中期初頭前後にかなりの量が土師地区に集中し、使用され、欠損品として廃棄されている。廃棄されたものは再度研磨すれば、小形の石斧くらいは作れそうなものまでどんどん廃棄している。供給先との関係が確立されなければ、このような「もったいない」使い方は起らないと思われる。また、近年明らかになってきた高槻型の石斧もぽつぽつと入ってはいるが、集中的ではない。つまり、遠賀川中・下流域のもの、あるいは田川の香春町五徳畑田遺跡で石斧がかなり製作されていたようだが、嘉穂地域ではそれほど見ない。逆に、遠方の今山のものが入ってくるのは福岡平野の共同体連合との関係が、そのあたりから確立されてきたかとも思える。

 さらに、甕棺の導入を見るなら、大野・冷水あたりから山塊に近い拠点集落に中期前半の汲田式・立岩など嘉穂盆地中央あたりには須玖式段階に導入される。八木山ルートは今のところ、宇美・須恵・志免・篠栗・久山・粕屋町あたりでの汲田式段階での甕棺普及率から考えると、横に置いて置くほうがいいと考える。

 石器と甕棺を混同する気はないが、中初頭段階で交易ルートの確立、前半期には石器はおろか甕棺や鎌田原遺跡に見る、青銅製武器やヒスイの勾玉類、原田遺跡の小銅鐸が入ってきている。この頃になると嘉穂地域は立岩製品が出回っており、福岡平野の共同体連合へ情報としてもたらされ、中には製品の一部もすでに山塊の西側へ流布し始めていたと思われる。古大間池の採集品に2点ほど立岩製品がある。

 立岩の全盛期となる須玖Ⅱ式段階で、地理的条件の悪い西北~南方の山塊ルートは、旧嘉穂町の千手方面から甘木方面に、さらに、馬見や小野谷・桑野方面から江川・日田・東峰村方面と広がって行ったのではなかろうか。

 この段階に至ると、嘉穂地域は立岩を中心とする一つの国的なまとまりを持つようになっており、当然、各ルート近くの拠点的集落もまたその範疇であり、石庖丁の運搬に係ったと考えられる。旧嘉穂町小野谷の巻原遺跡で、昭和59年弥生の集落が検出されたが、長方形の土壙から、須玖Ⅱ式の丹塗土器を交えた土器片多数と共に研ぎに研がれて小さくなった立岩製石包丁が検出された。これは、ただの廃棄ではなく、祭祀の結果だろうと予測したが、この遺跡を過ぎ峠道を進むと東峰村(小石原・宝珠山村)から日田へ抜ける。

 笠置山での原材料採取の状況が分かってきた。それが、立岩に運ばれ製品化し、それをどのように搬出したのか、一つは、立岩から人々が直接運ぶ方法。もう一つは、須玖Ⅱ式段階で嘉穂盆地の中心的な拠点となった立岩と、各峠近くの拠点集落や関連の小集落との間に出来た関係により、中枢の立岩で各峠ごとに製品を分散化させて運搬する方法とが考えられる。今のところ証拠はないが、個人としては後者の方法をとりたい。

 立岩の甕棺群と前漢鏡や鉄製武器等の出土傾向は、嘉穂地域全体で群を抜くのは以前から知られているが、須玖Ⅰ式段階までは、嘉穂盆地内の各所に有力な集団が育ち、拠点的集落が次々と登場し、旧嘉穂町の馬見地区は代表する有力集団であった。そのような拠点地区が、須玖Ⅱ式段階になると集落は存在するが、最早、有力集団の面影は消え、立岩を頂点とする統一の中に身を任せている。さらに、盆地という地形が幸いしたのか、統一範囲は限定されるため、結集しやすい状況にあったと思われる。

 以上のような状況下に置いて、石庖丁の盆地外への搬出は、それぞれのルートに精通する集落が当たったと考えられ、それは、以前から小規模に行なわれていた峠越の交易によって結ばれたそれぞれの関係を重視し、利用することによって合理性を図ろうとしたと思っている。

 嘉穂地域を研究すると、盆地という分かりやすい領域が自然に存在し、1980年代からの大規模な発掘調査によって、立岩以外の地域がかなり明確になったことで、嘉穂地域に限定はされるが、弥生時代を通じての統一化と分散化の状況が、分かりやすいという特徴がある。それに加え、立岩での石庖丁の生産と流布、甕棺葬の導入、今山製品の集中的搬入とどれをとっても興味が尽きない。学生時代から何だか分からずに飛び込んだ地域の歴史と考古学の世界だったが、嘉穂地域というフィールドに立つと、何か見えてきた気になるこの頃である。全てを網羅し体系化する事は、私には無理であるが、その時々に考えたことをまとめていけば、いつか形になると信じている。

 5月18日(土)千石峡の例の場所を訪れる。今日は15分ほどの踏査であったが、平地には、やはり無数の剥片やチッブが散乱し、30~40㎝ほどの大きさのものもけっこう落ちている。地表面での観察しか出来ないが、全体にまんべんなくというのではなく、ブロック状に集中しているようで、そういう集中箇所には野帳ほどの剥片が集中する。平地の奥はいきなり崖のような急斜面となるが、全体を土がかぶっているため、露頭の観察は出来ない。しかし、前にも記したように急傾斜面に向って左側に輝緑凝灰岩が集中しており、斜面を登ると中程までは輝緑凝灰岩のやや大きな塊が見られるが、それより上には存在しないようである。とすれば、向って右半分と上半部全体、さらに、左側の沢の対岸は全て頁岩であるから、頁岩中にコアのように含まれているものと推測される。

 さて、このコア状の露頭から切り出したものか、過去に露頭が自然崩落をした崖錘堆積物内のものを利用したのかは、発掘等の詳細な調査をやっていないのでわからない。しかし、今日訪れて散乱範囲とその数量に改めて驚きを感じたのである。およそ、200~300グラム程度で、野帳程度の大きさの剥片であれば、この露頭だけでもおそらく十分に供給可能であったと思われる。所在地は宮若市になるが、きちんと調査すれば、あるいは原石採取と粗割加工工程の実態が明らかになろう。

 先に少し紹介したが、笠置山の東側に笠置ダムがあり公園となっている。その脇に飯塚市の霊園があるのだが、実は、作業車両搬入口というのがあり、そこから入った左手に霊園の造成地がある。一部に墓地があるものほとんどは、削平そのままに残されている。問題は、その、墓地前方の広場部分に、輝緑凝灰岩の剥片やチップが散乱しているのである。周囲も含め未製品や製品、土器などを求めたが1点も発見していない。また、剥片状のものは、地中に埋もれたものが多く、重機で割れたようにも思える。とすれば、輝緑凝灰岩の礫層が存在していてその深さまで削り取ったことも考えられるが、不思議と整地範囲全体には及ばず、その一角に集中している。また、遺構などは今のところ分からないので自然堆積層と考えておくが、どのような状況でこの丘陵地の堆積層に輝緑凝灰岩の礫が混在したのか、根本的に究明する必要を感じる。また、笠置ダム周囲の丘陵地は遺跡の立地に適しているほうだと考えられるため、全域の踏査が必要と考えられる。

 原産地についてはこれくらいにして、立岩遺跡へと話を移そう。『立岩遺蹟』の中で下條さんが注意した、加工段階に細かな鋸刃状の刻み目を施す例が報告されている。数は少なくその後どのような解釈がなされたのか分からないが、この中では、加工の際の打撃点の滑り止め、あるいは、手で固定する際の滑り止めの可能性を示唆され、特に、強い打撃を加える際に手で固定し滑らないようにするという解釈をとっている。この刻み目については、もう少し観察を加えて解釈を導き出したほうがよいのかもしれない。というのも、立岩以外でこのような技法を聞いたことがなく、独自の可能性があるからで、立岩を特徴付けるヒントになるかもしれない。一度、よく観察してみたいと考えている。もしかすると、鉄器使用の可能性も視野に入れとく必要があろう。

 5月29日藤田先生にレポートの抜き刷りと笠置山の石庖丁の原材料搬出地点と思われるレポートの生原稿を渡してもらった。現地を案内しますと手紙にしたためておきましたのでいずれ返事をいただくかと思います。この際ですから、先生方に現地見学をしていただいて、立岩の石庖丁を中心とする石器製作の規模が以下に大きく、きちんとしたシステムに乗っ取ったやり方をしていたか、検証する時がきたかと考えています。今山は須玖Ⅰ式で終了したが、立岩は中期の終わりまで自力で生産と流通をやっていたのですから、大したものと感心しています。筑豊の炭鉱王達はその血を引いていたかもしれません。もっと、立岩の研究を進めるべきと思います。自然発生的集落がやがて石器生産工場となり、伊都国・奴国に次ぐナンバースリーの座を得るとはなかなか出来ません。第一に海がありません。陸上交通中心というか、歩いて富を築き上げた内陸人の根性を科学的にもう一度検証すべきです。青銅器だけではなく、何より鉄器の豊富なことには。弥生戦争論者も注目すべきでしょう。ヨーロッパのヒッタイトですよ。鉄製武器で攻めれば勝利は立岩にあったかも、韓国ドラマの見すぎかな。とにかく、内陸奥の筑豊という印象で考えがちになる。だから、福岡からいきなり瀬戸内にコースを考えるのですが、大内氏・毛利氏・豊臣も含めて内陸をけっしてあなどってはいません。今の考古学は筑豊地域を軽んじていませんか。冷静に出土したものや出土記録を今一度ご覧下さい。必ず見えてくるものがあるはずです。

  久々に立岩関係で書きます。もう一つのブログにことの内容を記しましたが、石庖丁の石材産地のレポートを九州考古学に投稿しましたが、ひどい内容でしたので取り下げることにしました。事務局の皆様にはご迷惑をおかけしました。

 しかし、千石峡での採集を再度行い、確信的になっております。資料もかなり集めて現在飯塚の資料館に見てもらうためあずかっていただいております。焼ノ正や下ノ方の資料をちらりと見ましたが、よく似ております。あたりまえといえばそうでしょうが、紫色の石だけではなく灰色や青灰色とかいろいろあって、立岩イコール紫色というのは、1つの特色に過ぎず案外色的には色々あるようですよ。

 発見したのが石材産地の遺跡とすると、チップや欠損品の数からしてかなりの量が立岩に運ばれたと考えられます。前期末~中期全般を通じての搬出でしょうから量も多いのでしょうが、とにかく粗割の1次加工品を運び出す合理性を考慮する必要があるでしょう。また、笠置山周囲を散策して他に石材をとった遺跡がないか調査する必要を感じます。当然、商品としての価値は、嘉穂地域外でも認められ交換価値がうまれていたのでしょうから、量的な交換が行なわれたと思います。

今打った文字が全て消えました。ココログおかしいのとちがう。

 省略して書きますと、千石峡の採集試料に半月形に調整された折損品がある。そこで、石材採集から形態の調整までを行なう第一工房(千石峡)と穿孔と研磨、そして何より大事な搬出をまとめる第二工房(立岩)があり、中期前半以降立岩ブランドの人気が高まるにつれて、そのような工程における分業も行なわれたと考えている。さらには、立岩遺跡内で、生産と流通という二つの部門が存在したかもしれませんね。だから、あんなに、遺跡群が集中し、おそらく周囲の村々から多くの人々が移り住み、流通等に携わったのではないですか。いずれにしても、笠置山麓の石材採取遺跡は、私個人ではどうしようもないので、興味ある方はご一報願いたい。秋から冬にかけて踏査しましょう、その間に、採集した石庖丁未製品の実測等を修了させておきます。

 もうひとつ、井上裕弘さんが2008年に筑豊地域の甕棺で論考を書かれました。その中で、多条突帯つまり胴部等に3条以上の突帯のある甕棺について22例の存在を明らかにし、他地域を圧倒することから筑豊の甕棺として位置付けられている。2006年『考古学の諸相Ⅱ』で多条突帯の甕棺が嘉穂地域の独自の製品として指摘していたが、認めていただいたようだ。井上さんと違う点は、その祖形を外部に求める(井上氏)と須玖Ⅱ式において通常あるいは丹塗土器などに多条突帯が発達する遠賀川流域も含め以東の文化の余波が、須玖式の新相期に甕棺の多条化を生み出したとする私との意見の相違である。その余波は、門田等の多条突帯の甕棺を有する福岡方面に広がったと考えている。文化の波はよせてはかえすのであり、決して一方通行ではないと信じる。

 それはともかく、昭和9年の中山平次郎先生の報告で、立岩運動場の甕棺墓はよく知られているが、5基あった中の2号と4号がやはり多条突帯の甕棺であることが記載から分かる。したがって、24例となるはずである。

 話は千石峡に戻るが、昭和55年直方の牛島さんが、採集した資料をもとに笠置山で原材料採取と粗割を行なったのではないかと想定したことが、下條さんの論考に記してある。おびただしい、未製品の山を目にした私は、牛島さんの眼力に賛同する。その時、なぜみんなで千石峡周囲の谷を分け入らなかったのであろうか。今山があれほどまでに調査が進んでいるのに対し、笠置山は森先生が露頭を発見したと記しているにもかかわらず、立岩丘陵にばかりが着目されているのは残念である。少なくとも、中山先生が記しているように、石材原産地の調査は、重要な要素である。黒曜石やサヌカイトなら必ず原産地調査を密に行なったであろうに。 やはり、青銅器の魅力に石器は勝てないかな。

 牛島さんの論考を手に入れた。さっと目を通したが、立岩遺跡から原石の出土がない点をすでに指摘している。私が最初かと思ったのだが、氏も何度か足を運んだらしい。しかし、未製品1点を採取しただけに止まったようだ。森先生が川床に大量に散乱する原石という紹介に誰もが観念的に川床や沢を目指すのだが、藤田先生が川床の礫は固くて加工しにくいが、露頭のものは摂理からはがれるように割れるため、すばやく加工できるとおっしゃっていた。まさに、露頭かもしくは崩れ落ちた岩塊が加工対象となったわけである。また、氏は完成品と未製品との大きさや重さの比較から重要な意見を述べている。北九州の原遺跡からの出土品より原石は完成品の三倍ほどの大きさが必要であることを見出し立岩でもそのことが証明されている。となると、石剣・石戈は相当に大きく長い原材料が必要である。そのような巨石が川床に点在しているとも思えない。事実、行った方はそれほど原材料となる大形の石がない事をご承知かと思う。したがって、第一工程が現地で行なわれたという予察には同意する。

 中村修身さんの「弥生時代の石器(石庖丁)生産の実態調査」『史学論叢』38号を再び開いて遠賀川流域の弥生遺跡から出土、あるいは採集された石庖丁の未製品を含む資料を工程別に記された一覧表を見て、ふと思ったのだが、Ⅰと示された粗割段階のものに目を向けると非常に面白いことが分かる。嘉穂地域を中心にしか分からないが、直方市の感田上原は、原材料を搬入して調整から研磨、穿孔加工までを行っていることがわかるが、その他の遺跡は、立岩遺跡群以外Ⅱ以降の未製品しか出土していない。もっとも、Ⅰ段階のものを集落内で調整工程まで仕上げて廃棄したとしたなら、こういうこともわかるが、素直に見れば、立岩以外の集落はⅡ段階のものを手に入れた可能性がある。そういう観点でこの一覧表を見ると別の意味で興味がわく。

 Ⅰが確実に出土している遺跡とⅡ以降が出土する遺跡は区別する必要があるかもしれない。

 

 

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