« 筑豊考古学新書 2 | トップページ | 立岩遺跡にはじまり、立岩遺跡に終わる。「中村さんへの回答も含めて」 »

華文刺縫陣羽織


  そもそも、この陣羽織は、「太閤陣羽織」、あるいは「太閤秀吉の陣羽織」とも称されるもので、天承15年(1587)の豊臣秀吉による九州出兵の時に、古処(所)山の山城を本城とする秋月氏(種実)攻略において、大隈町(浅野・森連署におぐ満町と記されている。) の人々が大いに尽力してくれた恩賞として、秀吉自ら羽織る陣羽織を大隈町 (三日町・五日町・九日町〔現上町〕) の代表者3名に与えたと云う。
 秋月氏攻略後の秀吉群は、筑後から肥後を南下して薩摩へとのり込むこととなる。秋月氏が敗れ去った後、南下進軍する豊臣勢に逆らうものはなく、いとも簡単に薩摩へと着陣し、間もなく島津氏の降伏を促し九州平定を実現した。
 その後、陣羽織は1600年の関ヶ原の戦い以降、徳川の世になってからも代々受け継がれ、昭和35年に国の重要文化財(工芸)に指定されるまでの370年余りの長きにわたって、保管されてきたものである。過去の資料に基づくなら、個人所有の宝物ではなく大隈町 (三日町・五日町・九日町〔現上町〕)の共有のものとして伝えられ、3つの町の代表者による持ち回りによって管理が行われてきたものであると記されている。
 昭和30年1月には、昭和の大合併により、大隈町・宮野村・千手村・足白村が合併し嘉穂町という新たな町が誕生したが、その前後からこの物件が国指定としての可能性ありとして、県を通じながら文部省へと内容の伝達がなされていたようで、昭和35年6月9日付けをもって、重要文化財に指定され、それ以降は、嘉穂町の町宝として広く知れ渡る事となった。
 しかし、一方地元では秘蔵の品としての感覚が一般化しており、町外に貸し出すことはなかなか容易な事ではなく、本の一隅に写真と短い解説が掲載される程度であった。しかも、過去の説明資料は、指定当時、陣羽織生地が羽二重(絹)と誤記されていたため、長らくその類の解説がなされていた。そのような経過をたどったためか、一般はもとより専門家の人々もほとんど目にする事はなく、その存在さえ知らないという状況があった。
 昭和35年重文指定以後、京都において直ちに修理が施されたが、30年以上が経過した頃陣羽織に傷みが生じたため、平成4年~5年にかけ2度目の修理を実施し、博物館等に貸し出す方針を貫くこととした。そして、平成17年には、大宰府に九州国立博物館が開館となり、その記念特別展に陣羽織が出展されその存在と価値が一層評価されるようになったのである。そのため、多くの方々の目に触れるとともに、多数のご助言をいただくこととなった。

1 華文刺縫陣羽織とは

①陣羽織拝領の経緯

 先ずは、貝原益軒の「黒田家譜」から見ることとするが、これは、黒田藩の学者である貝原益軒が、寛文11年(1671)から貞享4年(1687)かけて編纂した「黒田家譜」16巻の第4巻の記述に由来している。ちなみに、黒田家譜とは、黒田家の系図にはじまり、由緒や戦功、信長、秀吉、家康との様々な係わりが綴られたもので、黒田家の歴史書として位置づけられるものである。
 天正15年(1587)、豊臣秀吉は、近畿、北陸、中国勢およそ20万騎とともに、九州へ上陸し、小倉城から南北2手に分けて平定に乗り出した。南軍は秀長(弟)を将とし、毛利、吉川、黒田、蜂須賀、長宗我部、それに、豊後の大友勢を加えた8万騎をもって豊後から日向に攻め込んで行った。一方、秀吉の本隊10万余騎は、小倉から馬ヶ岳城に入った。旧暦の4月1日に豊前(添田町)の岩石城を包囲しこれを攻め落とした。翌2日には、大隈城(益富城)に入り一夜を過ごし、次の日の3日に大隈城を出て4日に秋月の荒平城に入った。
 一夜城は、秀吉が大隈の城に入った2日の夜から、3日早朝にかけてのもので、秋月本城(古処山城)攻略の手段として行った戦法であり、秋月はまんまとその手に乗って降伏したとされる。
 この書の中で、大隈町が秀吉から陣羽織を拝領した理由とされる「一夜城」の件を引くと「筑前國大隈の城あり。益富の城と号す。是は秋月種眞が父宗全隠居城として、是又要害よければ、爰にて又上方勢を防がんと思いし處に、さしも頼みし岩石の城、一日の中にたやすく攻落されぬと聞て、大隈の城に在し者共、俄に城を落て秋月の本城古所山に引退く。頓て秀吉公は大隈の城に入給ふ。(略)秀吉公大隈に留り給ひしが、敵の氣を奪はん為、暮に及てわざと嘉摩穂浪の村々に、かがり火を多くたかせ給ふ。南は桑野より、北は飯塚の邊に及べり。秋月家人共、古所山の頂より東の方を見渡せば、秀吉公の軍兵両郡に充満して、諸群の陣に燃す火は晴たる空の星のごとく、野も山も村里も皆軍兵とみえて夥し。夜明て古所の山上より大隈の城をみれば、一夜の中に見馴れぬ白壁出来、腰板を打たれば、見る者驚きて神變のおもひをなせり。是は敵の目を驚かし、勇気をくじかんために、播磨杉原の紙を以、夜中に城の壁をはらせ、民屋の戸板を集めて墨を塗り、腰板にさせ給けるなり。」
 上の文章の棒線部分が一夜城の築城にあたるところで、現代風には「白い紙はって白壁に、また、民家の戸板を集めて墨を塗り、腰板のように見せかけたことで、一夜にして見たこともない白い城壁が出来たように思わせた。」となる。つまり、秋月氏の降伏を促すため、各所にかがり火を焚かせ、大隈町から運び込ませた戸板等を利用して、映画のセットのような見せ掛けの城壁を築いたとされる。
 一夜城の光景を目の当りにした秋月種実は、「見るもの驚きて神變のおもひなせり」として、その後、降伏に至るという筋書きである。降伏の際に種実は、「秋月種眞髪を剃、墨染の衣を着し、向後御方に参り御下知を背き申まじきよし、誓詞を書て、家に傳ハりたる楢柴という名譽の茶入に相添持出て、其子種長と共に、大隈の西一里なる芥田と・・・後略」とある。
 そこで、秀吉がこの秋月攻略の成功を大いに喜び、協力した大隈町民に対し刀、陣羽織、朱印状等を与えたと伝えられ、現在は、陣羽織と朱印状の添状が残っている。
 さて、次に、昭和40年代の作成と考えられる教育委員会発行の「豊臣秀吉の陣羽織」を引用してみよう。
 「天正15年(1587)秀吉が、30万の大軍をひきいて豊前岩石城を落としいれ、一挙に大隈益富城に迫る時の城主秋月種実の父宗全はその勢力に舌をまき、一戦を及ばずして即日城を出て秋月の本城古処山にのがれ帰った。かくて、秀吉は悠々として益富城に入城、ここを本拠地として軍を張り一挙に宗全が引き退き険要古処の本城を如何にして落とすかと考慮した。
 一方、古処の城主種実は兵を集めて逆襲を企てたが秀吉は前策を廻して直ちに大隈町民の助勢を得てありとあらゆる各戸の戸、障子を城山に運ばせて一夜で壮大なる仮城を作る(これにより益富城を秀吉の一夜城と呼ぶ)又米を益富山上の城内に運び込ませて急な坂一ヶ所より白米を山麓に向け滝の如くに撤き流し、更に大隈町一帯の平野にはかがり火を焚き、広き平野はたちまち火の海と化した。これを古処の本城より望見した種実は、そのぎぜんたる城廓の現出に驚き意を決し領地を提示し降参をした。
 かくして、古処の本城は秀吉の策に依りて、一矢も放たず一兵の損失もなく鎮定したことは、ひとえに大隈町民の義勇奉公の精神と重んじ、この功を賞し久しく愛用して陣内寸時も脱せなかったと云う陣羽織を脱し、かつ副ふるに佩刀一振を町民に与え、奉行浅野弾正長政の書になる賞状を添え、大隈町にかつ永大貢税金と工役を免じた。」と説明がなされ、さらに、「このお墨付(浅野の賞状)は何時のころからか前文の大切な所(朱印状)はなくなり、今では副書だけが残っている。尚、この副書で目をひくことは「おぐま町」とあることです。古の書に依りますと「大隈」の名のおこりは神宮皇后が熊襲(くまそ)を大熊山に誅せられしよりおこる。もともと、大熊なりしが何時の頃からか大隈となれりとありますが、大隈の地はすでに永享の頃(足利時代)から北九州における軍事・経済・政治の重要な土地でありまして、軍功により豊前筑前肥後三ヶ国の領主になった大内盛見は大熊山(今の益富山)に城を築いて家臣をしてこの地方を守護せしめたと記されてあります。」
 教育委員会発行の上記説明資料によって、大隈町が秀吉から陣羽織を賜ったいきさつが見事に歴史物語として記されており、地元住民の心に深く浸透している。

② 陣羽織の服飾的側面

 それでは、秀吉から賜った陣羽織とはどのような品であるのか服飾的方面から解説を加える事としよう。
陣羽織の布地について、古い解説には「白ラシャを白羽二重ではさみ」というように絹織物と説明してあるが、科学的検査により白木綿の2枚の布の間にフェルト状の綿を挟んだキルトと判明した。その背には秀吉の家紋「五七桐の大紋」が真赤な緋ラシャで大胆にあしらわれている。背面下はセンターベンツで上端に金糸の緒飾りが付き、両肩には金唐皮の太刀よけを使い、表に並ぶ象牙のボタンは金糸で包まれている。キルトは白絹糸を使い2㎜幅のバックステッチで縫われ、文様は30cm前後と大きく、聖樹文・法輪文の他にイスラム寺院の平面形をデホルメしたものが描かれている。
 白木綿のキルトは、文様等の特徴からインドの西側地区でイスラム系の人々によって、ヨーロッパ向けの輸出用として作られたもので、ベッドカバーや天蓋のような大きな布地だったと推定される。それが、南蛮貿易によって日本にもたらされ、秀吉のもとに届けられたものを、秀吉好みにリホームして陣羽織としたものである。
平成8年に当時、兵庫教育大学(現 奈良女子大学)におられた岩崎雅美先生は、嘉穂町に秀吉の陣羽織を調査に来られ、服飾研究の立場から、初めて、綿密な調査研究を行った。その成果の報告は、陣羽織の概要にはじまり、文様、素材の本来の用途と生産国、陣羽織への用途の転換という順序で進められている。
 素材は白木綿地のキルトで、絹に似た上質のものを使用している。キルトの中綿は圧縮された綿で4㎜の厚さである。キルティングの糸は白絹糸であり、本来の色は白一色のキルトである。キルティングは全てバックステッチで1.5㎜前後の針目で、縫目線と縫目線の感覚は2㎜前後と狭く、全体に縫目がびっしり詰まった状態である。
 陣羽織の形状は、袖無しに立ち襟というシンプルさで後方中ほどから下方が背割り(センターベンツ)になっていて、馬上あるいは脇差を差す場合に都合よくなっている。着用する場合は、甲冑の上から羽織るようになっているが、全面は前身ごろを幅広く折り返して裏地の金襴(きんらん)を見せ、左右それぞれに2個ずつ付けた象牙のボタンに紫の平組のループ(欠損)で止めるようになっている。
 寸法は、後身丈 77.8cm、後裾幅 94.0cm、前裾幅 47.0cm、 襟幅 7.0cmである。
 通常、日本の着物は、後ろから前に布が続くように仕立てるため、模様が前後で逆さまになる。これを避けるため、前後の素材を肩部分で縫製して仕上げている。また、その縫目を隠すように「太刀除け」という、金唐皮と紫の平組の緒を組合せた肩章状のものが付く。これは、文様を生かした洋服の仕立法そのものである。
 背には緋羅紗(ひらしゃ)の五七の桐の大紋がつけられ、その周囲には緑のコードで縁取られている。葉の葉脈は、緑絹糸のチェーンステッチである。
 胸につく引合の緒は、緋羅紗で瓢箪を型取ってあり、全体の布端には金モールで縁取りされており、本来は緑系統の色でキラキラト光る感じであった。ボタンは象牙のクルミボタンを金糸でくるんだものである。襟付けの止まりのやや下方には、左右にかがりボタンの穴があるが、何のためかわからない。ただ、これが後世の軍服に見られるように、襟元を合せて固定する際に、両端にボタン状のものがついた組紐みたいなもので留めるなどすれば、陣羽織はダブルの打ち合わせになる。ただし、そのような紐は残っていない。
背面には、4種類と全面に2種類の文様を配置している。それぞれは数種の文様を合せたもので団文と呼ぶ。各団文はイスラムの絨毯(じゅうたん)によく見られる構成で、一つの団文がおよそ32平方センチメートルで、そこに華文を加えれば、約48平方センチメートルもの大きさとなる。正式な名称である華文刺縫陣羽織の華文とは、陣羽織全体に点在する花弁が20~50枚の円形文である。よく見ると、華文と法輪文があり、華文を連続させる例はトルコの絨毯やインドのジャイナ教のパネル文様に見られ、古代インドの武器からデホルメされた法輪文は、インドのシンボルとして国旗にも取り入れられている。また、団文の外周となる組紐文様は、ケルト文などと呼ばれ、古代ケルト民族が使用していた。
 次に、6種からなる団文の分析をしよう。まず、背面左側の上部にある文様は、花と葉と樹木が組合わされており、インドの樹木崇拝を代表する「菩提樹」を表したものと考えられる。背面右側上部は、蔓円輪文と四弁花文様の組合せとなっている。中央に四弁花文を置き、その周囲に法輪文を8個配置するもので、古代から世界中に見られる。背面左下部には正方形を互い違いに三重にはめ込み、中央と四隅に法輪文を配置している。これは、イスラム寺院の設計平面図に多い構図である。背面右側下部は、井の字形文様であり所謂井桁の文様で知られる。ここに入る5つの華文は最も花弁数が多く、世界的に見られる文様である。前面左側上部には八巴文である。前面左側下部には、法輪文を軸とした八葉花文様が描かれている。
 全体の文様の特徴としては、まず、ヨーロッパ・中近東・中国等の極めて古い時代の文様が含まれている点と全てがデホルメ化された抽象的な幾何学文様であることで、原始インド、イスラム的な要素が強いことから、インド・イスラム系の文様と考えられる。
 フロイスの「日本史」によれば、秋月氏攻略に大いに貢献したので、関白は大友宗麟に対し関白の紋章が描かれた緋色の絹衣一着を与え、この着物を着て若返るがよいと述べたとある。著者は「関白が宗麟に与えた絹衣」が陣羽織と同じである可能性に期待されている。
 それでは、陣羽織の素材となっているキルトは、本来、何に使用されていたのであろう。
キルティング素材は、布自体に厚みを持たせるための手法であり、寝具という意味も持っている。キルトに描かれた文様がかなり大きいことから、ベッドカバー、垂れ布、掛け布、敷物、天蓋、テントなどの大きなシート状のものが考えられる。
 そこで、当時、ベッドカバーのような西洋の寝具が日本にあったかどうかが問題となる。その点をフロイスは「日本史」の中で、大阪城天守閣の中に、2~3台のベッドと金糸で縫われた寝具らしきものがあったと記している。また、慶長3(1598)年伏見城で病床に伏した秀吉は、刺し子の掛け布団を掛けて、ビロードのクッションにもたれて休んでいたという。刺し子の掛け布団はキルトのことであり、南蛮貿易によってキルトの寝具が伝来していた。
 16世紀頃、白木綿を材料に白絹糸でキルトを生産していた国々はどこであろうか、当時、インドではキルトや刺繍キルトが盛んに生産されていた。そのインドと逸早く交易を開始するのは、ポルトガルで1536年のことである。1600年以降はイギリスなどが東インド会社を設立するようになるが、秀吉の活躍した天正期にはポルトガルがインドに進出していた。日本にも長崎を経由して多くの宣教師達が訪れるが、ポルトガルからで、インドで生産されたものが、ヨーロッパに送られポルトガルを経由して日本に入ってきたというわけである。16世紀のインドでは、かなり優れたキルトが生産されていたようで、寝具として天蓋や敷物、ベッドカバーとして特に貴族やお金持ちの人々の間で使用されていた。陣羽織の素材であるキルトは、本来、ベッドカバーとして製作されたものを利用した可能性が高い。
 永禄8(1565)年3月に足利義輝に謁見するため、パードレ神父は、毛氈をもって衣服とし、フロイスは羅紗のマントをはおって拝謁した。その後、内部を案内してもらっていると城内の女性より見せてくれと人づてに頼まれている。外国の衣服にかなり興味があったようである。また、フロイスが織田信長に謁見した折に、ヨーロッパやインドの様子を聞いた後に、足利義輝を訪問した際の服装について言及し、次回はその格好で来るようにと命じている。また、信長がインドやポルトガルの衣服を望むことから、多量の衣服が既に送られていたようである。当時、武士の間ではキリシタンでなくとも、首から十字架を下げ、西洋のものを身につけるというブームが訪れていた。当時、長崎には仕立屋が開業しており、時の西洋ブームに大忙しであった。
 もちろん、天下の秀吉のことであるから、当然、仕立職人を大阪城に呼び寄せたであろうし、城下に住まわせていたとも考えられる。ヨーロッパの衣服に深い関心を寄せたのは、織田信長であった。そして、名実ともにその後継者となった豊臣秀吉もまた、ヨーロッパの品々とスタイルを取り込むことによって、天下に信長の後継者は秀吉という印象を植え付けていったのである。
 岩崎雅美「秀吉のキルティングの陣羽織に関する一考察」服飾美学 第26号 1997 服飾美学会発行を大幅に改変して集録している。

 2005年の秋、大宰府にオープンした九州国立博物館では、開館の特別企画「美の国 日本」展が開催された。会館当初から連日の大賑わいで、大成功の企画展であった。もちろん、秀吉の陣羽織は、桃山文化を代表する工芸品として展示され、大勢の目に触れたのである。
この企画に先立ち、2005年11月16日(水)付け西日本新聞の朝刊4ページに、源流を歩く ―「美の国 日本」 ― 『インド キルティングの陣羽織』として掲載された。担当した木下 悟記者は、陣羽織の素材のキルトに深い関心を寄せ、奈良女子大学の岩崎先生を訪ねる一方で、キルトの生産地と推定されるインド西部のグジャラート州ア―マダ―バ―ドを、実際に訪れて取材をしている。
 キャリコ博物館の管理人は、陣羽織に描かれた文様を見てインドのムガール帝国時代のものに似ているという感想を述べている。また、岩崎先生は、この時代のキルトで日本に残るのは、この陣羽織と佐賀県小城市の三岳寺の刺繍キルトだけという。しかも、山岳寺のものより少し前に生産されたキルトが陣羽織の素材と考えている。つまり、日本に現存するキルト製品では、今のところ最古のものといえよう。

③ 陣羽織拝領の背景

 天正14(1586)年頃、九州において薩摩の嶋津は、豊後の大友、肥前の龍造寺等に戦勝し、多くが嶋津に従う状況となっていた。九州平定を目指す秀吉は、まず、毛利輝元、吉川、小早川はじめ、阿波、淡路、讃岐、土佐の勢力を筑紫に向わせ、軍奉行として黒田孝高を派遣し、まず、豊前の攻略を行わせた。七月に京都を出発し10日余りで小倉に到着し、追って、安国寺と宮木が遣わされた。吉川、小早川両人は、8月に藝州を出発し門司に着陣、その後、豊前に入る。
 それより先、秀吉は豊後の大友領内にしばしば攻め込む薩摩勢に対し、長宗我部と仙石を遣わした。この時、薩摩の嶋津義久に対し、浅野・木村両名を使者とし、合戦の停止と上洛を促がす手紙を遣わすが、何ら効果なく一戦に及ぶこととなる。
 9月から10月にかけ、豊前では国人衆がこぞって孝高に降伏し、特に、長野、時枝、宮成といった勢力もその属人となる。しかし、反勢力は小倉と宇留津の両城に立て篭るものの毛利勢によって攻略され、この時期、小倉城主高橋右近元種は降参に及んだ。その後、黒田、吉川、小早川は、京都郡刈田に陣を張り、築城郡の宇留津を攻め立て落城させ、続いて、京都郡の障子嶽城を落とし、田川の香春嶽と進軍した。ここは、高橋元種の端城であり、12月には孝高と吉川・小早川の勢力が取り囲み城主元種を追い詰めた。吉川は三の丸を切り崩し、水手曲輪を取って元種の降参となったが、その時、秋月種実は詫言をのべ降伏状態にあった。天正14(1586)年頃、九州において薩摩の嶋津は、豊後の大友、肥前の龍造寺等に戦勝し、多くが嶋津にしたがう状況となっていた。九州平定を目指す秀吉は、まず、毛利輝元、吉川、小早川はじめ、阿波、淡路、讃岐、土佐の勢力を筑紫にむかわせ、軍奉行として黒田孝高を派遣し、まず、豊前の攻略を行わせた。7月に京都を出発し10日余りで小倉に到着し、追って、安国寺と宮木が遣わされた。吉川、小早川両人は、8月に藝州を出発し門司に着陣、その後、豊前に入る。
 それより先、秀吉は豊後の大友領内にしばしば攻め込む薩摩勢に対し、長宗我部と仙石を遣わした。この時、薩摩の嶋津義久に対し、浅野・木村両名を使者とし、合戦の停止と上洛を促がす手紙を遣わすが、何ら効果なく一戦に及ぶこととなる。
 9月から10月にかけ、豊前では国人衆がこぞって孝高に降伏し、特に、長野、時枝、宮成といった勢力もその属人となる。しかし、反勢力は小倉と宇留津の両城に立て篭るものの毛利勢によって攻略され、この時期、小倉城主高橋右近元種は降参に及んだ。その後、黒田、吉川、小早川は、京都郡刈田に陣を張り、築城郡の宇留津を攻め立て落城させ、続いて、京都郡の障子嶽城を落とし、田川の香春嶽と進軍した。ここは、高橋元種の端城であり、12月には孝高と吉川・小早川の勢力が取り囲み城主元種を追い詰めた。吉川は三の丸を切り崩し、水手曲輪を取って元種の降参となったが、その時、秋月種実は詫び言をのべ降伏状態にあった。
 一方、豊後方面では四国勢(長宗我部、仙石等)が新城をかまえていた。
 嶋津義久の軍勢は大友の端城を取り囲み攻略に取り掛かっていた。四国勢はまだ小勢であり、嶋津の大群との戦いは思いとどまるとの評議を定めたが、仙石が一人駆けに及び総がかり戦となった。しかし、多勢に無勢であり長宗我部元親の子信親が戦死に及び敗戦となった。これをもって、豊後の戦況は変り、筑前へもその影響が及んだと思われる。先の豊前香春嶽の攻防で、降伏状態となっていた秋月は、再び反旗を翻したのか秀吉の書状に「秋月許容すべからず」とあり、それまで、秀吉側になびくようなら領地安堵としていたのが一気にくつがえることとなった。
 天正15(1587)年、ついに秀吉は九州に向けて出陣する。機内、北陸道、南海道、近江、美濃、伊賀、伊勢、尾張、山陽道8ヶ国、山陰道8ヶ国とおよそ37ヶ国の兵は、都合20万余に及んだ。その年の2月には、先陣として秀長が赴き、3月1日には、秀吉が京都をたって陸路もって九州へと下った。3月28日には長門の赤間ヶ関に到着、翌29日には渡海し豊前の小倉城に入城した。
 そこで、軍評定が行われ総軍勢を南北二手に分け、南軍は秀長を大将として豊前・豊後方面より薩摩に下り、本隊は秀吉が率いて筑前より肥後路を下ることとなった。黒田、毛利勢は、香春岳城を後にして秀長隊と合流し豊後方面へと進軍した。秀吉 本隊は、小倉を出発し3月29日の内に馬ヶ岳城に入り、31日には秋月方面へと進軍が始まった。
 秀吉本隊は豊前岩石城へと至り、豊臣秀勝を大将として前田利長、蒲生氏郷を副将にして4月1日の朝に攻撃をかけ1日の内に落城させた。この時、秀吉は杉原という場所に陣を張った。そこに、立花左近より立花三河という使者が陣中を訪れ、秀吉に謁見したようである。岩石城は、秋月の先兵を置いて秀吉の軍勢を防ぐ所として重要な意味を持っていたが、あっけない落城で幕をおろした。
 秋月種実は、息子種長に古所本城をまかせ、自ら人頭指揮に立って、短期間のうちに大隈町の益富城を巨大な城塞群へと大改修し、本陣として3万ともいわれる軍勢を駐屯させていた。そこに岩石城落城の知らせが入り、ほどなく種実は本城に引き上げ益富城は空城となった。
 4月2日秀吉本隊は、種実が去った後の益富城に着陣しその夜に、小石原村境の桑野から嘉麻、穂波一帯にかがり火炊かせ、あたかも秀吉勢であふれんばかりの状況であるかのように見せかけ、あるいは、大隈町他に命じて戸板を集めて墨をぬり腰板とし、さらに、その上に播磨杉原の紙をはって城壁に見せかけた。翌朝、古所の山から見たら、一夜にして見慣れぬ城壁が完成したかのように見えた。さしもの、種実も恐れおののき降伏に至った。
 4月3日益富城を後にした秀吉軍が芥田村に差しかかったとき、前方に剃髪し墨染めの衣をまとった秋月父子が、その場に屈服し手に楢柴という茶器を捧げ持っていた。秀吉は、この先薩摩征伐の先手に加わり、忠節をつくすようにと命じた。その後、本隊秋月の居城である。荒平城へ着陣し、三日間逗留した。
 以上は、寛文11年(1671)に福岡蕃学者貝原益軒が編纂した「黒田家譜」を基に、動向を示したものであるが、秀吉の九州平定から84年後に記されたものである。
次に、黒田家譜の基本となった黒田家文書はどうであろうか、特に、天正15年(1587)の4月前後の動向を追ってみよう。
 天正14年(1586)12月に吉川勢によって、香春岳城の三の丸と水の手曲輪が切り落とされ、豊前の高橋元種は完敗することとなる。この元種なる人物は、秋月種実の子で高橋家に養子として迎えられた人物であるが、この時、秋月種実自身も降伏した動きが読み取れる。黒田家文書によれば「今日廿二日到来、披見を加え候、しかれば香春嵩水の手を取られ候について、落居程有るまじき処、秋月種実詫び言せしむるについて、森壱岐守、秋月を免ずべきの由、申し遣わし候処に、命を相助け・・・秋月儀人質存分の如く出し、森壱岐守を秋月城に入れ置くにおいては、赦免せしめ・・・」というように、秋月種実が森壱岐守を通じて和睦を申し入れ、秀吉はこれを承知した上で秋月本城への入城を森壱岐守が行うよう命じている。
 ところが、12月28日付け秀吉の書状には仙石権兵衛の失態について記されており、豊後方面において秀吉群の四国勢が、戸次川において島津勢に敗れ敗走する事態が生じたのである。これに呼応するかのように秋月氏は再び勢力を盛り返し、反旗を翻すこととなった。秀吉はこの事態に対し12月30日付けの書状で「秋月事、兎角見合わせ候はば、許容すべからず候。殿下出馬の上は赦免すべからず候」と記し、天承15年(1587)2月28日付けの書状には、「秋月面取詰め候事、無用候、御馬出され候はば、悉く首を刎ねらるべく候・・・」と一旦降伏の態度を示しながら、反旗を翻した秋月への怒りは計り知れないものがあったであろう。
 3月25日秀吉は、赤間関から筑紫広門に充てた書状の中に「秋月表裏これ有る儀に候の条、取り巻きをなされ、首を刎ぬべき為、かの表へ御人数、明日廿七差し遣わされ候事、その方も人数召し連れ、秋月表へ越すべく候事」とあり(筑紫古文書)、秋月攻略のため九州の諸大名に従軍を促している。立花氏にも命令が下っており、立花統虎自ら軍勢を率いて秀吉軍との合流を行う予定であった。(豊前覚書)このように、秋月に対する怒りは、全面戦争へと移っており、九州に着陣している近臣達には、秋月本城のみを攻めるように命じ、端城は攻める必要なしとしている。また、岩石城攻略はしないよう森壱岐守に申し付けるようにとの内容が書状(豊公遺文)に見える。
 3月29日には馬ヶ嶽城に着陣、1日逗留し3月30日には秋月に向かうという内容の書状(黒田家文書)があり、次の書状は、4月15日付けとなっていて、岩石城攻略から益富城、秋月の荒平城入城辺りは、黒田家文書では追えないのである。この間、黒田は豊後方面におり、詳細は分からないというのが実情である。
「九州御動座記」には、4月1日岩石城を取り囲み即日落城させ、翌2日には益富城に入り1日逗留している。その際に、筑前国主秋月種実は、居城を浅野弾正・森壱岐守に相渡し剃髪して父子とも秀吉のところ(益富城)へお礼に訪れたと記されている。つまり、2日の内に、降伏のため剃髪した秋月父子が、秀吉と謁見したことが分かる。
次に、「古文書類纂」には、秋月氏成敗のため5万余の軍勢を差し向けた事がわかる。そして、当初は岩石城攻めを禁止した秀吉であったが、実情を見聞するや、案外に高き山城の要害であったため、秋月氏攻略にはかかせない所と判断し、秀吉自らの馬廻り衆ばかりで攻めるつもりであったが、羽柴秀勝・蒲生氏郷・前田利長の3人に攻略を命じた。午刻(正午)より攻撃が開始され、即刻落城させている。1日の夜は野陣し、翌2日に「筑前の内大熊と申す所へ御陣替なされ候」とある。2日に大隈に着陣されていることは間違いない。
その後に、「秋月父子かみをそり、先手の陣取り森壱岐守所へ走り入り、御歎き申すに付いて、いのちを御たすけなされ候、秋月父子大熊へ御礼に参候、ならしはかたつき進上申し候、則ち城、浅野弾正少弼御請所なされ候て、四日に移りなられ候」とある。
ルイス・フロイスの「日本史」には、先に香春岳城で降伏した高橋元種が、多額の金で森壱岐守を買収し、父親種実の命乞いをした。森壱岐守は芥田にある先陣(浅野・森)から単身で古所本城に赴き、種実等を剃髪させ墨染めの衣を着せ、降伏の支度をさせ一旦芥田の陣にひっぱって行き、その後に、秀吉の本陣(大熊)に連れていた。殺してしまえという秀吉を森壱岐守がとりなしたと記されている。

 萩蕃伐閲録巻102ノ1 令泉五郎の中に以下の文書がある。
 尚々於西条長福寺遂面談候、高屋にも吉田奉行衆と被仰候て是又令意見申相澄候、かしく去四日之御折紙、昨日六到来、則御返事可申處、今朝御数寄彼乗郎柴①被拝見候故、罷出御返事延引候、杳〃被仰越候段、誠御懇志之至、難盡筆紙候、如御書中関白様御下向之儀、諸人疑申候處、如被仰出候御下向寄塗特候、御人数等之儀茂古今希有迄候、去朔岩石一刻被切崩、一人茂不残被討果候、其日秋月至森壱岐守陣所走入、一命申請候、則古所御請取候、②無是非仕合にて候、國離散之儀被仰出候、来十日至高良山御陣易候、八代まて□不打置可有御打越之由候、嶋津滅亡無疑候、日向表之儀無心元存計候、我等事晝夜之辛労非大形候、先〃其城御番肝要候、猶自肥後衆可申候、恐〃謹言
(天正十五年)卯月七日                    安國寺 恵瓊
元満 参 御返報

 この文書は、4月7日のものであり、益富城の一件から4日後であり、秀吉本隊は秋月の荒平城に留まっていた頃のもので、手紙の主は安國寺 恵瓊である。①は、楢柴のことで、この日の朝に、秀吉はじめみんなでこの名器を見たものであろう。また、②については、岩石城落城直後からの秋月種実の動向を示したものとして重要と思われる。
 以上、黒田家文書の空白部分を埋める資料として、「九州御動座記」・「古文書類纂」・ルイス・フロイスの「日本史」・「萩蕃伐閲録」巻102ノ1 令泉五郎の4点がある。これらの資料から考えると、4月1日の正午に決行された岩石城攻略は、間もなく落城となり、岩石城守備の者達はことごとく首を刎ねられたと記されている。その一報は、大隈の益富城を本陣とする秋月種実に逸早く知らせられたであろう。資料によれば、4月1日岩石城落城の一報を耳にした種実は、その日の内に森壱岐守の陣に駆け込んで、命乞いをしたとされる。フロイスの記載は、さらに詳細で「高橋元種が、多額の金で森壱岐守を買収し、父親種実の命乞いをした。森壱岐守は芥田にある先陣(浅野・森)から単身で古所本城に赴き、種実等を剃髪させ墨染めの衣を着せ、降伏の支度をさせ一旦芥田の陣にひっぱって行き、その後に、秀吉の本陣(大熊)に連れていた。」とある。
 1日に森壱岐守の陣所に駆け込んだ種実の命乞いは、実子である高橋元種の買収もあってか、降伏への道筋が出来上がる。秀吉本隊が2日に大隈に着陣することは、当然、知らせが入っていることで、森壱岐守の単身で秋月本城へ出向き、剃髪と墨染めの衣という降伏の仕度を整えさせ、種実、種長父子共々を、一旦、芥田の先陣に連れて行く。そこには、浅野長政がいてそこで何らかの取調べ等があったのか、それから、森壱岐守が秋月父子を大隈に着陣した秀吉の元に連れて行った。「秋月父子大熊へ御礼に参候、ならしはかたつき進上申し候、則ち城、浅野弾正少弼御請所なされ」(古文書類纂)「剃髪して父子とも秀吉のところへお礼に訪れた」(九州御動座記)があり、フロイスの記載には「殺してしまえという秀吉を森壱岐守がとりなした」とある。
 いずれにしても、秋月父子は剃髪に墨染めの衣姿で、2日から3日の未明に秀吉と謁見していることになる。しかも、1日には森壱岐守と浅野長政に直接降伏の意思を伝えている。秋月種実は秀吉の実力をすでに承知しており、天正14年12月に、香春岳城落城のおりに森壱岐守を通じて和睦を伝え、秀吉に赦免されている状況がある。それを翻したのは、豊後での島津勢の戦勝により力付けられたもので、秋月は島津の動向に敏感に反応している。豊後方面では秀長隊による戦闘が3月29日辺りから開始され、毛利・黒田といった勢力が次々と城攻めを行い、島津軍は南下し始めていた。
つまり、秋月が期待した島津軍は劣勢となっていたため、孤立した状況に追い込まれていたことになる。そこに、岩石城落城の知らせとなるわけで、岩石城には芥田悪六兵衛、隈江越中守といった秋月勢力の名だたる武将が詰めていたが、あっという間に落城の憂目に会い、最早手立てなしという結果であろう。
 黒田家文書の4月15日付けの書状には、岩石城の落城によりことごとく首を刎ねたという知らせを聞くや否や、大熊・秋月(本城)・間寺・宝万・山下・高良山から熊本・宇土に至るまでの城はことごとく逃げ去ったり、命乞いをして城をあけわたしたと記されている。              以上のように、大隈に秀吉が着陣した時は、秋月本城の受け渡しまで終了していたようである。九州御動座記には、秋月の降伏をもって秀吉はご満悦であったと記されている。 

 

|

« 筑豊考古学新書 2 | トップページ | 立岩遺跡にはじまり、立岩遺跡に終わる。「中村さんへの回答も含めて」 »

歴史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/434003/11359450

この記事へのトラックバック一覧です: 華文刺縫陣羽織:

« 筑豊考古学新書 2 | トップページ | 立岩遺跡にはじまり、立岩遺跡に終わる。「中村さんへの回答も含めて」 »