« 2007年10月 | トップページ | 2008年3月 »

2007年11月

筑豊考古学新書 2

筑豊考古学新書は、書き込みが出来ないので、2を記載する。

加与丁池の尖頭器とは、Photo この遺物である。さて、みなさんどう思われますか。

横断面を記載していないので判別が困難でしょうが、中央下部の断面形態は六角形です。関西、中部瀬戸内の皆様宜しく。

 多分、この機会に打製石鏃とこの尖頭器の分析をやりたいと願っています。

私は、牧歌的人間ではありませんが、弥生中期までの戦闘行為が北部九州で、「どんだけー」と考えています。九州考古学にも書きましたが、意外と局部的なのかな、筑紫野市は戦死者が多いようで、何でも戦いに負けた村とか、例えば、首狩の行為が北部九州に見られるようだといいますが、弥生後期以降の例はどうなのでしょう。古墳時代はどうでしょう。もし、なければ何故そのような儀礼的行為が途絶えたのでしょう。もし、あれば何故弥生の中期に首狩が必要だったのでしょう。首を敵方に落とされた人物は英雄だったのでしょうか、元英雄、首がなくなればただの骸、戦争では戦場で切られたとは限りませんね、囚われの身となって切り落とされたとも考えられますが、相手の陣地から運ぶ、または、戦場から運ぶ、物語は書けますが果してどうでしょう。

 立岩丘陵でもかつて倒立した土器棺から、頭骨が出土し石鏃等が出土していますが、戦闘相手の首でしょうか、それとも、相手から返された首でしょうか、おまけに、石鏃付きですから解釈が難しい。

 今、弥生の戦争ブームですかね、もう少し冷静に考えながら進めたほうがいいのかなと思います。そんな時、中部瀬戸内や畿内から土器や石器が来ていたら、面白いですね。もっと、資料を当ればけっこう見つかるかも知れませんね。

 12月1日、安斎正人さんの「前期旧石器再発掘」捏造事件その後 同成社2007を購入した。先日、韓国で数十万年前の石器類が確認されたニュースが掲載されていた。個人的には、中期、前期といった旧石器を発見する夢を中学生の頃から持ち続けている。

 ところが、嘉穂地域に来て縄文より古いものに確実な例として遭遇していない。立岩例は、中でも確実性が高いのだが、あれだけ以前から調査採集されているにもかかわらず単体の神子柴タイの石斧が残されてるだけである。旧穂波町の森原古墳の場合、トラピーズが出土したとの話であるが、現物や図、写真も残されていない。また、穂波の資料館に展示されている黒曜石製の物について、ナイフ形石器と認める人がいるが、刃潰しに相当する調整が表面から裏面に入れてあるのが1点、もう一点は裏面から表面であるが、質感や色合い、風化面の感じからして同じ種類と考え、明らかな縄文後・晩期のものと同様である。形状からして縄文後期あたりから見られる剥片鏃に係るものと鑑定した。

 このことは、何度もくり返してきたが、何とか早期前葉から草創期に入れそうな遺物をちらほら確認しているが、単体に過ぎない。そうなると、旧石器人が住めなかった理由を考えなければならないが、この方が不自然で困難である。また、25000/1の地図を購入したので、低位段丘をあたって見ようかとも思う。高いがだめなら低いに鞍替えか、後ろに狩猟場、近くに水場を備えたところがよろしいかな。早速、地図と記憶に残る風景とでさがしてみる。

 旧石器の諏訪間 順は同期の桜である。久しぶりの宴席で彼は、以前東北にいた私が九州で考古をやっていてよかったといった。お前が東北にいたら必ず捏造事件に巻き込まれていたよ。といっていたが、その通りである。芹沢長介先生に憧れていた私は、私は必ずそうなっていただろう。

 単純だが、人々が大陸から来れば九州か北海道が最も近い。例えばアメリカ大陸の場合、アラスカ経由カナダ、アメリカと入ってくる。そうすると、必ずアラスカの海岸部に古い遺跡があることになり、それを実践している考古学者たちがいる。オーストラリアに人々が来るとするなら、陸続きになった海岸線からその近辺で、やはり調査が行なわれている。単純だが理にかなっている。考えすぎずに感を研ぎすませた方がいいかな。

 嘉穂地域の歴史的役割の一つに、九州と中・四国を直線で結ぶ最短コースを考えている。 弥生の道は、成人用大型甕棺の分布や青銅器の流れから、立岩から旧頴田町、田川の糸田、方城と続くものと考えている。その先は行橋か苅田・・・。

 縄文は、英彦山越えのルートが有力か。周防灘から田川・嘉穂と結ぶルートも明らかになろうが、今は分からない。

安斎さんの本を読んでみたが、やはり、捏造事件の前に戻る。そして、相沢忠洋さんから始まるアマチュアと称される方々の発見に再度期待がかかる。夏井戸や不二山、権現山といった名称が並ぶ。大分県の丹生・早水台、紅村さんの加生沢・斉藤さんの星野と学生時代のなつかしい遺跡名が次々と記されている。最後に、様々な研究者への批判が掲載され、芹沢・紅村・斉藤各氏の名称がおわりに記され、「その姿を垣間見た人たちへ、感謝の気持ちをこめて・・・」と結ばれている。

 結局、早い話が遺跡を探すことである。アマチュアとプロとはいいたくないが、もう一度みんなで探しましょうよ。あると信じて探せばあるはず。ジャワ原人を発見したデュボアは、信念にしたがって単身ジャワに向った。北海道と九州の大陸に最も近い海岸線から探せばいいだけのこと。机に座っていてもこればかりは無理である。探せ探せ見つけるまで。案外、身近にあるのかもしれませんね。岩宿に登呂遺跡から駆けつけ、愛用の携帯スコップで自らローム層中より旧石器を掘り出した杉原先生、早水台、福井洞穴、星野、岩宿0などやはり自らトレンチに身をかがめた芹沢先生に代表されますが、自ら掘り出す姿勢こそが基本であります。行政に身を置いて調査をしていますが、気持ちだけは、先生方の背を追っています。森 貞次郎先生は「色々な先生方が、様々な事を言われるが、最後はあなた自身ですよ。あなたの考えを決めることが何よりも大事ですよ。」と昭和61年嘉穂町の原田遺跡で有文小銅鐸を発見し、おいでいただいた時にそうおっしゃいました。日頃から尊敬する藤田 等先生は、自ら実測し、トレースし、現場に出て発掘をされています。現場を訪れた私に、先生自ら現場の説明をしていただきました。

 前期旧石器の存在を信じる方々、是非、自らの手で掘り出してみては如何でしょう。机上もいいでしょうが、トレンチやグリッドの中においでください。

 12月5日 いいことがあった。探し物をしていたら、昭和59年の発掘調査痔の遺物で、特殊遺物と書かれたビニール袋を発見、開けてみると格子目の押型文土器片、X状にクロスする条痕文土器片、縦3段に連なる刺突文土器片で、何れも勘高遺跡からの出土品で、当時は理解できずに報告を怠っていた。また、榎町遺跡の特殊遺物として凹線文の大型甕口縁部もみつけたので、必ず資料紹介いたします。お楽しみに。

 12月8日 飯塚の資料館で久々の講演、益富城の話を2時間しました。城郭に興味がないので、聞いている人たちも退屈だったと思います。それより、勘高遺跡遺跡で出土していた縄文早期前葉の土器が問題ですよ。本来、鎌倉期の方形居館を調査しましたが、遺構と押型文(山形)が出土しました。しかし、今回のような古い土器群があったとは夢にも思いませんでした。確か、低位段丘というより微高地に近いくらいの場所で、黄色のシルト層が広がっていたように記憶します。今考えれば黄砂のようなものが堆積していたのかもしれません。同じような土質のものを原田遺跡の調査で確認しましたが、あの黄色い層が、草創期からそれ以前に遡る可能性のあるものかもしれません。案外、低い地形に古式のものがあるのかもしれませんね。高い位置ばかり見てきましたが、低位の黄砂が堆積したような場所が危ない。筑豊の皆さんがんばって見つけましょう。

 添田の岩本ちゃん、もう少し深く掘りましょうね。きっと出ますよ古いのが、みなさん、もう一押し下げて見ましょう。草創期の遺物が見たいですね。案外、出土しているかもしれませんよ、私みたいに昭和59年以来の再確認ですから、あきらめずにやりましょう。また、隆線を貼り付けたものが全て轟B式ではないことを考えましょう。怪しいのが必ずありますよ。そういう疑いの目で見ると意外と見えたりして、失敗はたくさんあります、私もたくさんありますが、考古学は間違っても訂正がききます。人の生命に係らないところがいいじゃありませんか、間違ってもいいからどんどん発表しましょう。草創期の押引文土器を見ましたが、ほんと土師器ですよ。薄くて焼きがやたらいいんですね。この地で、隆起線文、細隆起線文、微隆起線文、爪形文、多縄文という土器群をいつか見つけますよ。遠賀川流域の皆様ご協力ください。変だと思ったらご一報下さい、仕事をやめてでもうかがいます。てか。

 12月10日竹生島古墳周囲から、黒色磨研土器の胴部片らしきものが出土していた。また、弥生中期中頃の鋤形口縁壺の口縁部が出土していた。何とも、すごい複合遺跡である。

 12月20日竹生島古墳に木島さんに来てもらう。前方後円墳を戦国末期にズタズタにして山城に改修しているからである。その前に岡寺さんにも来ていただく。二人の見解はほぼ同じで安心した。16世紀後半期の城郭の可能性が高い。遺物は出ません。新しい時期をやる人たち、特に、城郭研究をやる方々に申し上げますが、遺構と遺物があっているとはいえませんよ。16世紀の後半、城郭がバンバン出る時期遺物がありませんね。益富城跡でも城塞群の各所を歩いても拾えません。木島君の話に耳を傾けてください。非常時の際に城郭で用いられていたものは木製の器類かも知れませんよ。貿易陶磁が出てきましたからこの時期の城郭です。まてよ、今回、薬研堀のそこから出土したのは鎌倉期の貿易陶磁と瓦、土師器類ですよ、しかし、築城時期は16世紀後半あたりですよ。

 考古学は編年を基本としますが、貿易陶磁器も伝世品や2号品3号品が後世にバンバン入ってくる。また、編年の時期の決定も城郭出土品でやると危ないし、集落、墳墓でもどうかな。先史時代でももめているのに、15・16世紀ましてや江戸時代の編年の基になるものが崩れたらどうするの。山城を掘ったり見たりしていると、必ず、宗教遺跡や古い城郭跡を改修した例が多いようです。竹生島も中世には高台寺という寺跡と前方後円墳をフルに活用してますから、たいがいそういう場所を選定して山城としているようで、当然、古い遺物が多く出ますよ。だからといって、明らかに遺構形態等が新しければ、再考すべきです。いわば複合遺跡ですよ。もう少し、考古と城屋が協力してやるなら、それに土器や陶磁器で編年を確立しているあなた、城郭云々で年代を決めていたら足元からすくわれるよ。もう一度、木島君の意見に耳を傾けましょう。彼のほうが考古学らしいよ。

 12月21日武末先生現場に来ていただく。弥生の話になり旧嘉穂町の榎町遺跡で、東部瀬戸内地域の凹線文を主とする土器片資料が得られている。前にも書いたがⅣ様式のⅢらしい。とすると中期の再末期になる。それをストレートに九州に持ってくると中期末に納まるのか、それとも、後期初頭の高三潴の古段階に相当するものと考えれば、内陸地域のおもしろい構図が現れる。立岩を中心とした中期後半期の嘉穂地域は、その終焉と同じくして遺跡数の激減がある。(福岡地方紙研究45号を参照)後期の初頭か前半かというところであるが、初頭とは高三潴の古、前半は新ということになろうか。いずれにせよそのあたりに大きな画期を見出す事は諸先輩方のいわれるとおり。福岡や糸島といった強大な国があるところは別とするが、そういう地域でも遺跡数の減少傾向が見られ、疫病説集住現象、私が書いた飢饉説など様々な解釈がある。

 私個人として立岩の絶頂期である中期後半から末あたりに、外来系土器を携えた人々が来るとすれば、交易による人々の移動とも取れるが、奴国の前線基地とも言われる当地域では、東部瀬戸内から入り込む隙はないかと考える。しからば、立岩衰退後の荒涼とした内陸部に高三潴古段階に相当するが、東部瀬戸内からの人々の到来は可能かと考える。くり返すが、榎町遺跡には中期と後期前半の遺物はまったくない。あるのは、東部瀬戸内系の外来土器のみ。また、山田の成竹遺跡の打製石鏃も気になる。

 戦国時代、大内、毛利、は海を越えて博多に直接行かず、常に内陸部を取り込もうとしたし、実際に取り込んでいる。博多の背後から忍び寄るのであろう。もし、畿内や東部瀬戸内勢力が入り込むとしたら、立岩衰退後の後期初頭から前半期を好機ととらえるのはよい作戦かと。いやいや、時代劇の見すぎかな。しかし、後期中頃から土器様式に大きな変化が現れ、竪穴住居にも片鱗がうかがえるとか、さてさて、面白くなってきた。

 先日から、森 貞次郎先生が「日本の考古学」に書かれたものを、また、読み出している。昭和49年発刊の2版で、中学校の時に購入したと思う。1九州というもので、一 九州の風土と弥生文化の地域性、二 縄文晩期の文化と弥生文化の形成、三 弥生前期における北部九州文化の発展と来る。二から三までは北部九州での弥生文化の形成と発展ということでこういう見出しが付けられよう。ところが、中期の段階で、通常なら須玖式土器や様々な大陸系の金属器等からその優位性を語るのかと思いきや、四 中期における近畿・東瀬戸内系文化の東南九州進出という見出しとなっている。そして、五に至るや、後期における北部九州文化の孤立ということになっている。

 さらに、内容を見ていくと前期末あたりから中期初頭にかけ近畿・東瀬戸内文化圏の第Ⅱ様式の影響が東部九州に現れ、西部瀬戸内にも九州系と第Ⅱ様式系の折衷様式が見られる。しかし、北部九州にまでは到達しない点を優位性として捉え、理由を朝鮮半島との交易の独占にあるとしている。一方、近畿・東瀬戸内文化圏の影響が強い東部九州に対しては九州と瀬戸内を結ぶ海上の交易は東瀬戸内人が主体性をもってくると記されている。この、前期末中期初頭に起こる現象の中で遠賀川流域はいかなる位置にあるのか、この頃、製作が開始される立岩の石庖丁、桂川の土師地区に集中的に搬入される今山系の磨製石斧、土器も概ね北部九州でいいと思われるが、特に、田川方面に高槻式の土器が入るように思える。嘉穂地域では若干見受ける程度である。また、高槻系の石斧も点々と見つかっており、香春町の五徳畑ヶ田遺跡では所謂高槻形石斧を製作しており、遺跡外への交易がうかがえる。しかし、田川地域を越えるのかどうかは、確証がない。やはり豊前とと筑前の境界は当時からあったのであろうか。

 中期の城ノ越から須玖式になると、ほぼ、広範囲に須玖式文化圏内に入っていくようで豊前や筑後、肥前など含めて強力な文化圏が登場する。しかし、そういう中にあって森先生は、あえて「東部九州文化圏の成立」と「南部九州への流入」という小見出しを出して概観されている。豊後から日向においては近畿・東瀬戸内文化圏の影響下に成立する土器文化圏がやがて鹿児島まで南下するという。

 中期の土器について遠賀川以西と以東という形で明確に区分しながら、須玖式土器の分布圏の中でも、異なる特徴を明示した武末さんは、以東と以西との互いの影響を考慮し、特に、須玖Ⅱ式の段階では、以東地域の土器の影響が、以西地域に浸透し、ついには、「土器を変化させる力は、須玖Ⅱ式以降、瀬戸内地方との接触で新たな器形を生みだしていく以東地域がしだいに強くなり以西地域を凌駕していくとみられる。」と記している。例えば、甕棺の多重突帯はおそらく嘉穂地域で生まれたと思われるが、その影響が以西地域にも少ない数であるが見られる。門田の甕棺もそれにあたるのかも知れない。

 以東地域からの流れの背後には、近畿・東瀬戸内との関係が考えられる。そのような流れの中で、北部九州で起こる後期の初め頃の遺跡数の極端な減少傾向は、須玖式文化圏の弱体化の現れであり、踏み込めなかった北部九州の以東地域に近畿・東瀬戸内系の文化が直接足がかりを求めたもの、それが、東部瀬戸内第Ⅳ様式のⅢの土器が単独出土した背景かと考える。

 ちなみに、その足がかりは後期を通じて残り、やがて、古式土師器に急激に変化する要因の一つとなったのではないか、榎町遺跡に隣接する穴江・塚田遺跡では、井上さんが方形居館(庄内の新か布留の古)跡を検出している。いわば、嘉穂地域における畿内文化の拠点ともいえる遺跡である。

 以前から旧嘉穂町では、豊前系統の土器の存在が知られている。井上さんも指摘しているが、特に、後期後半から終末にかけて多く見られるようである。そのような中で、原田遺跡から出土した竪穴住居内の一括とおぼしき土器群について、平底の長頚壺を中心としながら瀬戸内から豊前に見られる口縁端部が内側に屈曲する高坏が伴うもので、下大隈式の古段階と思われる。そのあたりから盛んに豊前方面の土器がよく見られる。後期後半から終末でも原田の石棺に伴った高坏などは、北九州の高島遺跡のものとよく似ている。井上さんは、よく豊前ルートの話をしていた。時期的には、後期後半期頃からと話していたが、東部瀬戸内第Ⅳ様式のⅢあたりまで行くかな。嘉穂地域の甕棺をまとめた際に、嘉穂盆地の立岩から頴田町を通り、田川盆地の糸田・方城に抜けるルートがあってそこに、大型甕棺が分布している。問題はその先であるが、甕棺では追えないようである。ひよっとして、青銅製の武器ではどうだろうか。特に、糸田に集中して出土しており、興味を覚える。

 12月13日 久々に飯塚歴史資料館に行く。昭和59年4月に文化財に就職して以来、初めて入館料を支払って入ってみた。筑豊での考古学をやる上において、そこは自分の研究の原点であり、課題の発見、整理とともに、何度も立ち返り自分自身を取り戻す場でもある。合併直前、それまで溜っていた難題・課題が一気に噴出し、その整理に1年以上をついやした。地域住民とのトラブルを何とか解決して合併に臨んだ。私は文化財を離れ中央公民館へと異動し、それまでのトラブルからようやく抜け出せたという安堵感があった。その夏頃から、眠れない・食欲がない・心と体が石のように重く、考古学の本すら読む気がなくなった。早速、心療内科で診察してもらう。「鬱」との診断、それから現在に至るまで月に1度の病院通い。

 去年の8月に異動し文化財に戻ったが、1市3町の文化財を2人でやるのはしんどいもので、49歳になって事務屋の仕事は、ほぼ初めてのことであり、何をやっているのかわからないままに過ごしている。今までが恵まれていたのであろうが、事実心と体のバランスが壊れかけている。そんな時、「自分に残るものは何か」と自問自答をくり返す。残ったものは、やはり、考古学しかない。この学問に入り35年が過ぎた。筑豊というフィールドに立って、22年間掘り続けたこの地は、様々な論題を提供してくれたし、この先もずっと私に語りかけてくれるだろう。

 「鬱」というものが、この先いつまで続くのか分からないが、仕事とに影響しているのか、自身がなれない仕事で、悪い方向に引っ張っているのかは分からないが、思うように物事を運べない。仕事に引っ張られ、自分を立て直すことが出来ない。こうなると、ますます疲れ辛くなる。4月16日から25年目に入るが、その前に2年間の会社等勤務があり26年間は働いている。まあ、年金の対象者にはなっているはずで、50を目前にもう一度人生の先を見つめなおす時期が来たと考えている。つまり、考古学は続けるが、役所仕事は見直す時期に来ているということで、飯塚の資料館を訪れたわけである。

 立岩の資料を見ているとふつふつと思いが湧いてくる。それは、仕事云々ではなく、自分の中にある弥生時代の筑豊の位置付けである。周防灘沿岸部は、近畿・瀬戸内との交易拠点として必ず注視される。さて、その次はと見ると福岡市域なのである。多くの研究者の方々に申し上げたいのは、内陸を抜きにして考えて欲しくないこと。周防灘沿岸より入り込む近畿・瀬戸内文化は、海沿いに福岡市域へと入ったと考えていらっしゃる方々、その場合もあろうが、むしろ、筑豊を抜ける直線ルートは、早くて安全、この上ないルートである。福岡市域・糸島等と近畿・瀬戸内を結ぶラインがよく設定されているが、なかなか、筑豊の中身まで示されないものが多い。東西文化の交流は、直接というよりも間接的に村々あるいは地域を介して結ばれるものと考える。甕棺もそうであり、決して一足飛びに入るものではなく、波紋のように広がっており、様々な文化にも応用出来るものと考えている。

 そんなことを思いながら、立岩の出土遺物を見ていた。そこで、新たに思いついたのが堀田遺跡の甕棺出土状況である。何かピント来るものを感じたので検証したいと思う。話は戻るが、突然、職場を去ることも視野に入れている。実際に発掘しながら材料集めをし、また、論文や研究ノート、資料紹介などしていけるのが自分にとっては幸福なのだと思っている。ついでに言うと、ローンもないし、子どもの学費もそこそこあるし、後はどこで決断するかである。まずは、心と体を1番に考えたいものである。

 以上は、ささやきである。また、路線をもどすとしよう。

 ショック、「立岩遺蹟」のなかに、甕棺の深度が記していない。実は、展示室に堀田遺跡のモケイがあり甕棺の平面的な位置関係と同時に、埋葬の深さの差がわかるようになっている。そこで、ふと思ったのが深さと甕棺型式に関連があるんじゃないかと、今まで、平面的に捉えていたが、立面的な関係からアプローチを考えたわけだけど、報告書にないとすれば、直接、飯塚の資料館で調べるよりないかな。春成さんが以前堀田の甕棺墓群で書かれていたが、平面的に2群が存在すると書かれていたように記憶する。これを平面と立面と編年を絡ませるとどうなるか、これは私の思いつきで危険ですから試みないように、ただ、モケイを見ていて須玖式は浅くそれ以降は深くなるなあーという思いつきに過ぎません。あしからず。

 しかーし、墳墓群を平面と立面の二方向からつまり三次元的に、映像化しながら観察するとどうだろう。もちろん、型式ごとに色分けをしておいて古式のものから新式まで造営される状況を鳥瞰図みたいに見ていけば、墳墓群の実態によりアプローチできないだろうか。例えば、立岩の須玖式段階は浅いのであるが、立岩式になるとかなり深くなる。あくまでも想像であるが、須玖式段階では2~3基程度の甕棺墓であり、自然地形をそのままの形で利用し埋葬するのだが、相対的に深さ自体は立岩式との差はあまりなかったと考える。しかし、立岩式の時期になると一気に14基もの甕棺が埋葬され、しかも、副葬品から王族クラスのものが占めている。その際に、選定地を整地したのではないだろうか、発掘では明らかになっていないが、特別の墓域として選定し、平坦あるいは段状といった人工地形とした可能性はないだろうか。当然、墳丘墓として存在してもいいのだが何の証拠もない。ただし、丘陵を平坦化させた結果、古くに埋まっていた須玖式は地表近くとなり、新たに掘り込まれた立て岩式は、本来の深さに近い状況となる。

 鎌田原遺跡では、当初より墳丘墓として存在したのではなく、最初に墓域の選定が行なわれ、中心主体となる木槨墓造営にさいして墳丘墓の形状を整えていったと考えている。

このあたりの切り口から立岩の堀田を考えて見たい。

 次に、鎌田原遺跡の調査と整理を行ないながら、徐々に甕棺墓の地位の向上の様相が垣間見られた。当初は大型木棺や木槨墓が中心主体であったが、中頃あたりから甕棺が取って代わるようになり、後半期においては、甕棺墓のみの構成に変化した。この状況から立岩の堀田はもちろん早良の吉武・高木や鳥栖のうーん遺跡名は忘れたが弥生墳墓群も同様に考えている。この関係が地域を越えて見られるのであれば、甕棺墓の優位性の問題や発信源、そもそも、大型木棺や木槨墓の交代劇があってはじめて甕棺優位の考えが生まれ、弥生中期後半~末の王墓が甕棺を使用することになったとしたら、中期前半から中頃に大きな埋葬様式に対する思想転換期が訪れたものと考える。その選択はどうなされたのかその辺を探ってみたいと思うが、みなさんどうかな。

 新C14で出されている年代から、鎌田原遺跡の木槨墓を検討するとどうなるのか、調べてみよう。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

考古少年回顧録 図版編

Img077_7 蒲田池の石鏃   Img070_8 

                  

                                            加与丁池→                                                                  

Img076_2                                                           

                                            

     

Img072_8

 加与丁池                                      

                                  

                        

高橋池Img074_4                  

                                    Img079_2高橋池→

   

Img073_3                    

 Img080_2

Img075_2              

     Img078_3

  Img071_6 

              

              

          

                

蒲田池 

画像をクリックしてください。                                                             

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2007年10月 | トップページ | 2008年3月 »