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筑豊考古学新書

               考古学中年野郎 ただ今参上!

                                             福島 日出海

 考古少年はいつしか中年となり、おなかは出っ張り、髪薄く、老眼のおやじと変化していく。しかし、夢だけは相も変らず持ち続けているのだか、なにせ、仕事と家庭を抱える身、それに、実行力が伴わないと来ているから夢と現実は、平行線?いや徐々に広がっているのである。 夢とは、旧石器人骨を発見すること、後期旧石器時代以前の石器を探すことにある。

 幸い、居住環境が恵まれており、やや離れているが石灰岩地帯が広がっているし、南側には火山からの噴出物で形成された彦山周辺の凝灰岩地帯がある。何れも洞窟や岩陰が点在している事にはちがいなく、条件は揃っている。あとは、中年の力を発揮すれば 良いのであるが、中々にして仕事が忙しく、休みの日はぐったりとして、一日を過ごすのだ。そんな時、藤森栄一や中村孝三郎、帝釈峡などの古い本を取り出して読むのだが、想いばかりが先行し、それに体が追いつかない。

 ただ、考古少年期より進んでいる点は、自転車が自動車となり、行動範囲が格段に広がったこと、それと、お金があるので、 先ずは、地図と地質関連のガイドブックを購入する。また、図書館で市町村史をめくっての情報収集をすることもスムーズとなった。行動力のなさと老眼、出ッ腹と薄毛をカバーしているかな?

 実は、少年時代に比べ大きく欠けてしまった点は、「無心」、「粘り」、なんとしても見つけようという「意志の固さ」と分析している。熱さ寒さが気になるようでは、まだまだ、到達は出来そうにない。

 しかし、ここは弱くなった歯を食いしばりつつフィールドに出よう。私の決戦の場は野外にあるのだ。

1 赤色チャートを求めて

 田川郡添田町から、縄文時代の遺跡が次々と検出されている事はご存知であろう。縄文早期の落し穴や後期の大珠が発見されたといて、報道機関でも取り上げられている。おおよそ、田川地域を流れ下る川は、今川、彦山川、中元寺川の3本に集約され、その何れもが、英彦山系の山並に源流を求めることが出来る。

 その中で、特に目を引くのが今川上流域の縄文遺跡群を中心に見られる。赤色の原材料から製作される石器群である。後遺跡では、明らかにその石材を利用した石器製作が行なわれたようで、不定形ではあるが多量の剥片が得られ、中には石器も出土している。さて、俗に赤色チャートと称される原材料が何処で得られたものか、極めて興味ある問題である。地元の方々は、「今川を遡ったら川の中に何ぼでもおちちょる。」ということらし。とすれば、にわかに頭に浮かぶのが英彦山系列の山々である。

 そこで、10月13日(土)にフィールド調査をすることとした。もちろん、老体に鞭打ってのことである。今川の上流には油木ダムがあり、その上流に点々と集落が存在する。集落近辺では、もちろん水稲耕作が行なわれていて、今川の蛇行に沿って張り出したわずかな平地を利用して、水田と集落が営まれている。縄文の遺跡は、わずかに張り出した平地に立地しており、かなり上流まで遺跡の確認がなされている。

 採集品では、縄文前期の曽畑あたり、調査では早期の押型文や撚糸文などが確認されている。おそらくは、早期の段階に併行すると思われる赤色チャートの原石が、川の中に落ちているというから、是非お目にかかりたいと朝から車を飛ばしてやって来た。油木ダムのかなり上流に当る所で、川に下りてみるとあたり一面が玄武岩や安山岩の巨礫群で驚いたが、水底に赤色の小石が点々と見える。「これや」と思い周囲を観察すると5cm程の大きさの赤色をした岩石が点々と落ちている。しかし、大きなものはなく、略その大きさに止まっている。

 さて、問題はこの川のどの辺りから採集できるかである。そこで、いきなり、最上流の英彦山からみやこに通じる道路まで直行した。そそり立つ岩肌から流れ落ちる沢のいくつかを見たが赤色の石は全くなかった。底から、再び川を下ることとし、なるべく、車が止めれる場所を探して川に入ることにした。200mほど下ると、木を伐採するための道が作られていた。そこから川に下りるとやはり全く赤色の石は見当たらない。しかし、開削された道を往復しながら、いつものクセで「下を向いて歩こう。何かが落ちてないかな」である。

 すると、粘板岩製の石器?と土器片を採集する。薄い器壁の表面に2条の沈線文、縄文かなと思う反面、何でこんなところでという地形の状況で、「信じらんない!」とでも表現しようか。もう少し下ると、広く木々が伐採されている山地形にしては平地が広い場所を見つける。そこも、伐採用に開削された道がありそれを下って川に到着する。やはり、赤色の石はない。

 しかし、帰り道の途中で縄文土器の破片を採集する。内外面とも条痕文で表面は縦方向、内面は横方向薄手で焼きかがよい。早期の条痕文系かとうれしくなる。また、一点やや大きめの土器片発見、これは、黒色で厚手、内外面横方向の条痕文で、多分、後期かな、細かな押圧剥離の施された漆黒の黒曜石片と姫島かなと思わせる白色の黒曜石片を採集する。

 さらに下り、ようやく1軒の家の脇をすり抜け、焼尾橋という文字が入った、歩数5歩で渡れる橋の下へと降りる。目の前を流れる清流、やはり巨大な火山岩の石畳が重なる中に赤い点が星のように見える。急いで、水の流れに近づくと、けっこう大きな赤色の石が落ちている。一見してシャモットである。この鑑定を吉井氏に頼もうと14日に訪ねるつもりにしている。ボタ山から工事のために運び込まれたシャモットであれば苦労は水の泡、1からやり直しとなる。

 ただ、素人目にはチャートではなく赤色の桂質頁岩に見える。例えば、第3紀の頁岩層が英彦山の噴火によって変成され熱作用により蒸し焼きになれば、シャモットと同じとになるのだが、先ずは鑑定。

 鑑定終了。結果はチャートではなく頁岩である。赤色は鉄分による着色の結果であり、内部まで赤色、あるいは青い部分がまだらに入る。おそらく、第三紀層、あるいは第四紀のはじめ頃の頁岩層ではないかということである。おそらく、河川両脇に見受けられる礫層中に混在していると考えられる。ただし、実際には確認できていないが可能性は高いと考えられる。後遺跡から出土した赤色のものはチャートであり、おそらく、古生層のもので基本的に異なるようである。

 今川上流の赤色頁岩(仮)が実際に石器の原材料として使用されているのか、興味あるところである。また、礫層中には円礫が多く、大形のものでも角が摩滅しているが、赤色頁岩は角ばったものが多く、焼尾橋付近のどこかに頁岩の層が確認される可能性がある。

 それでは、赤色チャートは何処ににあるのか、それが問題である。もしかすると山国川流域にあったものが、峠を越えて運び込まれたとも考えられる。いずれにしろ、英彦山連山とも言うべき山々から流れ出る川は縄文の道として重要な位置を占めるものと考えられる。「豊前田川地域と豊後地域を結ぶ縄文の道」としての認識を深めるべく、フィールドワークに望みたい。

 2 八木山東側山麓の丘陵地帯

 

ところで、穂波町発行の『穂波町誌』1969には、嘉穂郡穂波町椋本・森原遺跡調査の際に2次堆積層中から台形石器が出土したと記されているが、写真・図面等がなく実物も不明である。また、1939年岡崎 敬氏は「遠賀川上流の有紋弥生式遺跡地」『考古学雑誌』29-2の中で、福岡県立岩遺跡を中心とする遠賀川上流域の遺跡を取り上げて報告されており、その中に、弥生時代の磨製片刃石斧として紹介されているものがある。1990年横田義章氏は再検討の結果「神子柴型石斧」として紹介され、旧石器時代末期から縄文時代草創期に位置付けられたが、採集地点は不明である。これらは、当地域に縄文時代草創期あるいは旧石器時代の遺跡が存在する可能性を示唆するものの、資料的には不充分である。

 西横田遺跡は、八木山の東側山麓に発達する丘陵群の1つに相当するもので、遠賀川に向って長く延びる丘陵の先端部付近に位置しており、標高は約40mを測る。丘陵部全体が開発行為によってほとんど宅地化あるいは工場用地として現況を失っている。当遺跡も宅地造成と道路によって切通しとなっており、土層がはっきりと読み取れる状況にある。

 本来、当遺跡がのっている丘陵自体は基盤が第三紀層でその上に礫層を基底とする洪積世の堆積物が見られ、丘陵頂部における侵食作用の結果、軟弱な洪積世堆積物がかろうじて残されているのが当遺跡付近の形状であり、特に、切通しは地形図によれは゛南北に細長い舌状を呈していることが分かる。

 層位は明確に削って確認したわけではないが、表土下に明褐色土層があり、その下部がソフトローム的な漸移層から赤褐色のハードローム的な層(赤色土)に移る。この層は40cm以上あってその下に、薄いが明黄色のロームが見られる。その下部に鉄分の固まった様なペラペラな堆積物があり、その下は、白色からやや灰色がかった粘土層で明黄色と灰白色の層がASO-4と考えられる。

 層位は西から東に向って緩やかに傾斜しており、東側ほど赤色土の厚さは増しており観察しやすくなっていて、一部に落ち込みを確認している。その底部に張り付くように破砕礫が、また、崖面下よりチャートと思われる自然礫を採集している。

 落ち込み底部は、一部ASO-4を切り込んで作られているが、どの層から掘り込まれたかは定かでない。ただ、埋土は周囲の赤色土と全く同じもので、上層の明褐色土は一切含まれておらず、硬くしまっている。底部の西側立ち上がりの部分には、灰白色と明黄色のロームとが混じった埋土がブロック状に含まれていた。ただし、石器は未発見である。

 その丘陵部の東側に造成によって平地が作られ、畑となっている場所がある。そこには、チャートを含めた礫が多く含まれており、中には石器状のもの2点ほどを採集している。地形的には平坦であるが、すぐ南側に溜池があり、丘陵部が溜池に向って傾斜していたと考えられる。また、畑の北側は高くなっていて基盤に礫層が見られる。おそらく、八木山山腹に見られる呼野古生層に関係するチャートが含まれると思われ、原材料として確保出来る状況にある。

とにかく、石器の材料となるチャートが礫層中に発見できた事は次へとつながるし、赤土(レス?)に掘り込まれた遺構状のものの正体をつかまねば成らない。

地質的には、周囲に古生代の変成岩があり、中央には中生代の花崗岩が広がるが、南南東から北北西に延びる多くの断層が認められ、全体が遠賀川地溝帯の南端に位置することから、地盤の沈下に伴い、第三紀層が断層に沿いながら帯状に堆積する。その範囲は、山田市・嘉穂町から庄内町綱分と穂波町枝国の間くらいを通り飯塚の白旗山、目尾当りに延びている。主な断層は東側より高倉・岩崎・平恒とあり、主要河川は断層に沿って流れ庄内川・遠賀川(嘉麻川)・泉河内川がそれぞれ対応しており、穂波川も名称は分らないが桂川あたりから北に延びる断層に沿って流れている。

断層の見られる地域は、平野部と丘陵あるいは低山地との比高差が高く、平野部から突然に切り立つ山といった状況である。例えば岩崎断層が走る嘉穂町から碓井町、稲築町にかけて、南北に長く延びる大隈の平野部は、盆地内でもかなりの面積をもつ。東西の両脇には第三紀層の低山地が走り、断層が走る東側では桑野から大隈町にかけて100m以上の比高差があり、開析の進んだ牛隈から稲築町あたりで30mに達する。西側は比較的開析が進むものの30m近くの比高差が続き、千手川と遠賀川合流点の谷頭に低台地が存在する。また、遠賀川と山田川の合流点から北側に形成された稲築町から飯塚市上三緒付近の平野でも、大隈付近と同様で比高差のある丘陵地が平野部の両側に延びている。その下流に位置するが、遠賀川と穂波川の合流する付近の東側には、立岩の花崗岩からなる丘陵地が弓なりに西側へ張り出しており、開析が進んだ地形は河川に向い小さな丘陵が数多く並ぶ。

一方、穂波川流域の西部は断層が見られず、三郡山から八木山方面にかけての山麓は花崗岩地帯で、小河川による開析谷の発達が著しく、穂波川に向い枝状に丘陵が延びている。また、河川の流域である筑穂町の元吉から長尾、北古賀から桂川町の豆田、穂波町の高田といった地域には、下流に向い細長く延びる丘陵地が形成され、その間には小平野が発達し、遠賀川流域とはやや異なる地形である。

遠賀川流域は、南北に走る断層と第三紀層の発達によって河川による侵食は進むが、沖積地から直接切り立った低山地との組合せが目立ち、低平な丘陵地があまり見受けられない。一方、穂波川流域は風化が進みやすい花崗岩地帯が広がり、開析谷が発達するため小河川が多く、低平で細長い丘陵地が目立っている。特に、桂川町土師から筑穂町北古賀、大分付近と飯塚市弁分から大日寺、伊川から建花寺付近に集中して見られる。それら、低丘陵地には花崗岩の風化土が広く見られ、その上部を赤色の洪積層が覆っている。場所によっては厚い薄いがあり、堆積時の条件の差か、堆積後の風化の度合いかは明確ではない。

 堆積している層は、レスと呼ばれるものなのか、粕屋郡辺りで見かける真っ赤な層とは異なり、黄色気味である。そうなれば洪積世の堆積であろうから、旧石器を含む包含層の発見も可能である。ちなみに、旧筑穂町役場付近から北古賀に延びる丘陵は、ASO4その上にレスの堆積が見られる。ちょうど桂川から筑穂中学校へ向う途中の左手に造成地があり、以前ははっきり見ることが出来た。現在は、その反対側の高所に小さな砂防施設が出来ているが、切り通し状と成っていてはっきり分かる。近く、行くつもりである。

3 ついに発見か?

 嘉麻市碓井地区の竹生島古墳の発掘現場で、桂質、あるいはチャートか判断しかねるが、厚手の剥片が出土した。石材の質と視力が落ちたせいでリングやフィッシャーが見えずらいのだが、色調は暗灰色でいかにも硬そうである。さて、層位的確認は今から現場に向うが、縄文の古いところ以前と予測している。出来れば草創期かそれ以前に遡ればいいのだが、とにかく、70mくらいの山の上というよりは独立丘陵で、弥生中期までの遺物は出土しているが、改めて見直す必要がある。早速出かける事とする。

 九州歴史資料館に行って、実物を観察してもらいコメントをもらったぞ。石材は桂質のもので、その可能性は高い。石器である。時期的には縄文の後期、しかし、土器。石器ともに何ら出土していない。とすると、縄文の古相か旧石器かである。地質的には、現在小山に見えるが、実は、高位段丘の独立丘で、下層部赤色層で礫を多く含むが、礫は軟質である。それから考えるに、基盤は第三紀層で基底礫層があり、地山層の仲原層辺りに匹敵する堆積かと考えている。そうなると、河川堆積であり、当時の標高の見当が付いてくる。その上に。ASO4あたりがのっている可能性は高い。

 旧筑穂町の筑穂中学校近くにし尿処理施設かな、そこを右に下ると板金か塗装工場があるが、その上に新たな露頭観察場がある。基底の礫層がありその上にASO4、レス、沖積世の堆積物あり。中位段丘かと思われる。土師器か弥生土器らしき遺物は見つかっているが、旧石器らしきものは今のところなし。観察にはいい所。

4 10月27日土曜 晴れ

 午後から再び英彦山に向うつもりである。どうも、川底に散乱する赤色頁岩にTOOLがありそうで、そんな気構えで行くと以外に拾えそうである。報告は今夜いたします。

 あぁー失敗だ。なんと、添田町今川上流の川底に散乱している赤色頁岩は、なんとシャモットであった。がっかり、体中の力が抜けてしまった。ようやく、原石の層を発見したかと思いきや、なんと、川岸の上にかつての道がありそこにシャモットを敷いていたことが判明した。 しかし、これで面白い展開を迎える結果となろう。

 添田の後遺跡で検出された赤色チャートは、大分方面から持ち込まれた可能性が高くなった。嘉穂地域では赤色チャート製の石器は検出されていない。田川の添田を中心に見られる程度ではないか、とすれば英彦山連邦を超えて人々が移り住んだ、あるいは交流があったと見て差し支えないないと考える。実際、今川流域は最上流部から点々と縄文遺跡が連なっており、田川地域と嘉穂地域の縄文遺跡の様相が異なる要因の一つか。

 嘉穂地域の旧石器遺跡に迫るには、高位、中位、下位それぞれの段丘を知り尽くす必要があろう。ことに、高位段丘となれば、ひょうこう100mの丘陵や独立丘を対象とする必要がありそうだ。ことに、碓井の竹生島神社地は高位段丘、旧筑穂町公民館から北古賀に延びる丘陵は中位か高位、その上にASO4がありレスが積もっている。ちなみに、丘陵でもマサの丘陵があり、礫層がなく直接レス状の土層があるが、極めて薄く所謂丘陵である。この際、徹底して段丘を見分けて古式の石器を探そう。

 それにしても、シャモットにだまされるとは、修行がたりないことを痛感している。

5 10月28日(日)晴れ 

 昨日は、英彦山から三時過ぎに帰宅、赤色頁岩は昭和のシャモットと判明し、痛む心を抑えつつ、車洗いに専念する。その時、ひらめいたのだが、嘉穂盆地内の地形を考えるに高位、中位、低位とそれぞれの段丘を標高で区切ることが可能ではないかと感じた。

 早速、下山正一先生の講義を思い出しながら、強い赤色でくさり礫、あるいは半ばくさった礫を含む基底礫の地形を探してみると、碓井の竹生島(50m)は、高位段丘である。筑穂町長尾から北古賀に延びる丘陵(56m)は、基底に黄褐色土に大量に変成岩や石英系の礫を含む基底礫があり、ASO4が確認される。

 嘉穂町の原田・鎌田原両遺跡は、ご存知であろう。発掘調査の後そこで見た光景は、原田の場合、花崗岩の風化土が基盤にあって、その上に礫層がのっており、河川の堆積物である事は間違いない。その上にシルト、レスとなり、その上に包含層がのり、表土へと続く。しかし、東に隣接する鎌田原の丘陵は、基盤が花崗岩の風化土でその上に礫層があり、その上に灰白色粘土層(ASO4)がのっていて、さらに礫層(原田の礫層と同じ)があって、レス?、包含層、表土の順であった。鎌田原の甕棺墓群は、礫層の中に掘り込まれており、弥生の包含層が見られた。原田にも鎌田原にも縄文がない。不思議である。特に、原田の台地は何ヶ所も掘ってはいたが、不思議と縄文に出会っていない。ところが、屏川の西側には縄文早期から晩期に至る遺物が点々と出土しているのには驚く。しかも、椎木本村では縄文後期後半の住居跡さえ検出されているのである。

 田川の添田に行くと縄文早期から晩期に至る遺跡が、点在しているのだが、何れも、原田のような低平な台地ではなく、蛇行する川に突き出た丘陵や段丘、微高地に立地しており、猫の額と言っていいほどの場所が多い。原田遺跡は馬見台地上に位置するが、居住の切っ掛けは、水稲耕作で必要不可欠な水路づくりがあって、初めて居住可能となったのではないか。縄文人には嫌われても弥生人には好まれる地形があるように思われる。

6 10月30日(月)

 今日も現場に足を運ぶつもりでいる。古墳ではなく高位段丘に潜む桂質岩でつくられた石器を求めてみる。結果は、夜に書こう。

 ここから先は、見たこと、感じたこと、思ったこと、支離滅裂に書いていくから、読む側の立場に立たないものとして受け止めてください。

 11月1日の午後、竹生島の現場から黒曜石の原石出土。時期不明。弥生中期時が出ているので注意だが、まだ、縄文土器は出土していない。桂質岩?でつくられた石器の次に出てきた。色は漆黒、自然面に白色の不純物が入る。全体に摩滅しており、水和層は厚い。形状は逆三角形で角が丸くなり、底辺あるいは上面部中央を一打剥離、しかし、両端には届かず自然面が残る。しかし、到達した剥離面から下方に三ヶ所ほど縦方向に剥離が入る。特に、真ん中の剥離は、1cm幅の長さ1.3㎝の剥片が剥がれたであろう。

 大きさは、上面の長さ3㎝、幅1.7cm、高さ1.5cmの小さな原石である。見た感じ、腰岳に見えるが、どうだろう。白い流紋岩質か何か分からないが、細長く入っている。7㎜×3㎜くらいのものが大きい。ちなみに、剥離面も古く、稜線がつぶれている。さてさて、面白くなってきた。黒曜石の原石、それも小形のものが入ってくる時期はいつ頃なんでしょうか。

 ここの地質であるが、くさり礫を多く含む真っ赤な層であるが、中に、全体にグレーで中に白い小さな粒状のパミスをちりばめたような礫を多く含んでいる。全ての礫がサクサク切れる赤土の礫層。そのパミスを含んだような礫の正体はなんだろう。ご教示願いたい。

 すぐ隣には琴平山という玄武岩の火山があるのだが、まさか、玄武岩がくさってサクサク切れるわけはないだろうし、昔、関東で発掘していた頃に埼玉で江戸期の浅間山噴火のパミス層を見たが、よく似ている。最も、関東では3㎝くらいの厚さだったかな。竹生島の上から出るのは相当に厚い物である。密かに、琴平の玄武岩がくさったものかと思う次第である。

 古墳の周溝か戦国期の堀跡に溜っている土も真っ赤で、鳥栖ロームが入っているのかわからない。

 旧穂波町の忠隈古墳がのっている丘陵は、標高60mで竹生島に近い標高である。古墳の下には礫層がむき出しになっていて、緑色の変成岩の円礫が大量に入っている。古墳の葺石にその石材を使用しているが、やはり、河川堆積物である。

 さて、嘉穂盆地の標高50~60mに見られる礫層は、ある程度まとまってくるのではないか、つまり、丘陵や独立丘陵として残存する中で、河川堆積物が見られるものは、高位か中位の河岸段丘の痕跡であり、旧石器の遺跡が存在する可能性を有しているのではないか。ちなみに、立岩丘陵のような花崗岩台地もあって複雑ではある。さて、何処から旧石器が出るのか楽しみである。1ヶ所見つかれば、あとは考古少年に変えればすむこと。楽しみにしていてくれ。碓井の竹生島古墳のある高位段丘は最も近い存在である。古墳は担当者に任せ、私は時々訪れて石器を探そう。

 11月2日(金)

 ついに出てくれた石鏃、ガーンか?抉りの深いやつ、薄緑色の綺麗なチャート製、押圧剥離の細かさは、まるで磨きこんだようなツヤがある。先端に向って内湾気味、先端はかけているが鋭く尖っていたに違いない。さて、時代だが縄文早期の押型文、撚糸文、無文、刺突文、条痕文なのか、出来ればもう少し遡って欲しい。遠賀川下流域には、立派な有舌尖頭器があるし、立岩から出土したとされる神子柴型の石斧、土器が見つかるまではあきらめないよ。土器の顔を拝んだ時に判決が下される。出来ればミミズ腫れのような隆起線が蠢くもの、新月のような痕を連ねたもの、もっと欲を出すなら押し付けた縄文や絡状体の土器が見たいものである。ロトにあたるようなものかな。

 さて、嘉穂盆地をたいがい訪ね歩いたが、肝心の旧石器に出会ってない、当地には昭和59年に赴任以来、発掘を重ねながらあちらこちらと採集に出かけてみたのだが、出会っていない。旧穂波町の資料館にナイフ形石器らしきものがあるが、私には縄文にしか見えなかった。裏面からではなく表面から調整としての剥離が入っている。どなたでもいいが機会があったら実見していただきたい。ちなみに、遺跡は後・晩期の遺跡だったと記憶する。それに比べ、田川の例で桂川町の長谷川氏が資料紹介したやつは、プレハブにこもって個人の採集品を実測していた長谷川氏を訪ね石斧が印象的だった中に、ピッタシ見つけた一品がナイフ形石器であった。「これナイフやないと」というと「俺もなんかおかしいと思いよった。」と答えてくれたのは、ナイフ形石器として紹介してあったと思う。

 私が育った糟屋郡では面白いように旧石器が採集できたのだが、うーんわからん。旧小石原、田川、鞍手、糟屋と周囲にはぐるりとあるのにどうしてか、見つからん。何でやねん。ぼやくぞー。

 11月3日(土)

 今日は文化財めぐりのバスハイク、旧嘉穂町の千手小学校西側に高い丘陵が続いている。独立丘陵で千手氏が低地の方形居館をそのままに丘に上げてきた城郭跡である。方形に整えられた頂上に資財等を運ぶための取り付けの道がある。そこで、丘陵の断面が観察されるのだが、赤色土層のうえにレス?がのっている。標高110mで基盤は花崗岩の風化土その上に礫層があったと思うが、今度確認してみる。赤色の厚い層は鳥栖ローム(ASO4)と考えられる。石器が出ているわけではないが、要注意の場所である。

 下山田の安国寺跡は、奥の院というところがあるがそこに行く途中の右手には、僧房跡らしき平地が続く。奥の院は岩屋といわれ、足利尊氏が菊池軍に追われて隠れたという伝えのある場所である。行くと岩陰になっていたようで、後世に天井部が崩れ落ちたようである。長く信仰の対象となっていたので、石段なとで壊されているが、どこかにテラス部があったのではないか。西向きで住まいに適しているかどうかは不明だが、興味をそそられている。他にも嘉穂と山田の境をなす尾根は、岩肌が見られ、実際に窟のような場所もいくつか見受けられる。 そういえば、添田の岩本君が言っていたが、彦山にある窟のところで黒曜石が拾えるという。

 本日も西横田遺跡(飯塚市)に行って見た、やはり遺構のようであるが、遺物の露出はない。褐色あるいは黄褐色のレスに掘り込まれている事には間違いなさそうで、内部の土も上部層からの土は含まれてないように見える。

 突然ですか゜、長野県で出土したという中広?の銅戈が何本か出ていたが、綾杉ではなく斜格子文とはびっくりした。北部九州から出土する中期前半期に出土する薄刃でペラペラな銅戈に見られる斜格子文とはね。因果関係があるかも。

 11月7日(水)

 ついに、土器が出た。押型文だ、石鏃の形態もあわせると、柏原遺跡の第5層の上部かな。もう2歩踏み込みが足らないようだ。もう1点、赤褐色の土師器みたいな小片が1つやや厚いが、繊維を含んでいるようで怪しい。表面はナデ仕上げ、上部に刺突状の窪み2ヶ所、偶然のような気もする。はたして、刺突文までいけるのやら。

 図録を見ながら、繊維を含む土器はもう少し古くなるかも知れないと思いつつ、目の前の紙面に並ぶ押引文の土師器のような赤や茶の色調に目が奪われている。手元の土器の裏面に見られるカーブから、微妙に口縁部付近のものと考えられる。そうするとね二つの不揃いの穴が口縁部付近に位置するようになり、可能性は近づく。勝手な幻想に過ぎないかも知れないが、何とか草創期の壁をのり越えたいものである。

11月11日(日)

 平成17年11月26・27日に、第7回石器原産地研究会で今山玄武岩と各地域における弥生の石斧生産という内容で研究集会が開催され、私は嘉穂地域の様相について飛び入り参加のような形で報告したことがある。とりあえず、嘉穂地域の実情を調べながら、以前から思っていたのだが、嘉穂郡桂川町の土師地区に玄武岩製石斧が集中出土するのは何故かという疑問を訴えるべく、簡単な報告文とともに発表したのである。この点では、福大の武末氏が筑紫野市隈西小田地区での今山系石斧出土量における集落間格差を指摘し、有力と劣位という集団間の階層差が関係すると指摘したことをはじめ、小郡市の柏原氏が三国丘陵での様相を示しながら、今山系石斧が拠点的な集落に集中する点と近隣集落に多く見られ、、さらに周囲に至ると少なくなる傾向にあることを指摘し、拠点集落に集中的な供給が行なわれ、そこから周囲に分配されるというモデルケースを抽出した。

 以上のような状況が見られる中、嘉穂地域においては今山とほぼ同時期の玄武岩を噴出した小火山が3ヶ所にあり、中でも、旧碓井町の琴平山はすぐ近くに位置することから、必ずしも今山製ではなく自給自足的な製品の製作が土師地区で行なわれたのではないかと指摘した。その後、桂川の資料をお借りして佐賀大学で分析していただき、プレパラートによる比較から、今山のものという答えが導き出されたようである。これは、私個人への回答であり、正式発表は石器原産地研究会誌で公表される予定である。

 疑問が残る。私の知り合いの岩石専門家は、プレパラートの比較だけでは、何ともいえない状況があるという。つまり、嘉穂地域の3つの火山について全てのプレパラートが比較可能であるのかという点、それと、旧頴田町で出土した玄武岩製の礫器があるが、その質感や色調などどれをとっても今山のものに類似している。時期は縄文の早期末か後期と考えられるが、原産地は最も遺跡と近い旧庄内町の市室山とにらんでいる。どうであろうか?

 出来ればその玄武岩製の礫器を化学分析していただき、回答をいただければ面白くなると考えている。外見上の類似からすれば今山の石材は縄文早期末に嘉穂地域に到達していると考えられる。研究会の席上、福岡市の吉留氏の発表では、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期とまんべんなく石材として利用されているようであり、ひょっとすると、嘉穂地域へとも考えられるが、縄文の石材流通について新たな視野が広がる可能性はある。ただし、市室山あるいは旧山田市の摺鉢山の何れかの石材と判断されたなら、市室山・摺鉢山と今山の違いをプレパラートで明確にし、再度、桂川の石斧のそれと比較する必要を感じる。つまり、まだ私は100%今山産と信じているわけではない。

 そういえば、旧嘉穂町のアミダ遺跡の出土品に玄武岩製の石斧があったように記憶しており、探してみるつもりである。

 11月14日

 昨日、サヌカイト製の尖頭器?らしきものが出土しました。粗い加工でひょっとして別の器種になるかもしれないけど、一応、尖頭器でいいと思います。しかし、パティナが薄く、古式の感じはしません。簡単に実測して九歴の杉原氏にファクスしていますので、答えが聞けるかな。竹生島は、製品と原石が出土しただけで石器を加工した石屑や剥片がありません。本当に、一時的なキャンプ地だったのかもしれません。

 旧稲築の資料室で、物色していたらサヌカイトの稜線1条の石刃的な剥片を見つけました。その他にサヌカイトはパラパラありますが、パティナというか風化度合いが全く異なる1点です。縦長で下方を切断していますが打面の調整は判然としません。表面は一方が縦に剥離し、もう一方は、横から剥離しています。ただ、かなり風化が進んでいて、古式のものと言えるでしょう。ただし、縄文の初めか旧石器かはわかりませんが、可能性は捨てられません。

11月17日

 旧稲築町の吉成遺跡から採集された石刃状の剥片観察する。全体に風化が強くリングやフィッシャーがよく判別できない。下半部は断面三角形の頂点付近から剥離のラインが入っているようで、裁断している可能性が高い。長さ2cm、幅1.3~1.5㎝、最大厚7㎜である。問題は、打面であるがかなり風化していて調整痕が判然としないが、自然面ではないように思える。また、平坦であるが、微かにリング状の緩やかな高まりがうっすら見え、ひょっとすると、剥片を剥ぎ取る前に、かなり大きく打面調整をやっている可能性もあり、興味深い。個人的には、縄文以前の産物と考えている。

11月18日

 竹生島の現場に足を運び、つぶさに地面を観察するが、黒曜石等のチップすら採集できない。土器片は採集できるがはたして弥生か縄文か分からない。キャンプサイトとはこのようなものなのか、なんとか資料が欲しいが、そう簡単には手に入らないと思われる。けっこう険しい壁である。

 山田の成竹遺跡だったか、山田の市民ホールにある資料室に弥生の有茎石鏃と記されたものがある。けっこう長さもあり細身で少し望をかけているのだが、なんと、展示ケースの鍵がないと言う。とにかく、嘉穂地域の古い資料に当ってみよう。先人達が行なったように、万が一資料にぶつかれば道は開けると信じている。稲築の吉成遺跡の立地を考える必要がある。早速、当ってみようと思う。

11月21日

 山田の市民ホールにある資料室に弥生の有茎石鏃と記されたものがあるが、展示ケースの鍵がないとのことだったが、根性で鍵を発見、早速、取り出して観察、サヌカイト製の優美な有茎石鏃である。まてよ、縄文後期のアミダ遺跡をはじめ、結構、サヌカイト製の石器や剥片は見てきたが、それらより、風化が進んでいて、全体にやや白っぽい感じになっている。両面ともに整った押圧剥離で左右対称の美しい仕上がりである。これまで、筑豊で弥生の打製有茎石鏃を見た記憶がない。展示してある土器を見ると、弥生前期末から中期初頭くらいであろうか、もう一点は磨製の凹基式石鏃で、立岩で見る小豆色の凝灰岩製品である。

 よく似た石器を見つけたが、大阪府喜志遺跡の有茎石鏃で、古代史発掘4「稲作の始まり」講談社P140の231図dがそれである。しかし、大阪で九州の福岡ではない。ひょっとして、九州と関西との戦争で勝ち取った品、前期末だから違うやろう。となると、小形の有茎尖頭器で縄文草創期かな、一見の価値有り。展示品に黒曜石があるので、今度は手にとってみてみよう。また、展示してない品々が、展示室の戸棚の中に何ケースも眠っているので、期待していただこうか。スカで終わるかもね。早速、明日行ってみよう。

 ところで、福岡で弥生のサヌカイト製で前期末あたりの有茎石鏃、しかも、優美なものが出土していたらご教示ください。

Photo旧山田市成竹遺跡出土の有茎石鏃です。長さ4.5㎝最大幅1.3㎝土器資料、石器資料を本日ひっくり返してみましたが、弥生前期末~中期初頭と若干の中期後半の須玖Ⅱ式土器がありましたが、古いものは全くなく、弥生であると分かりました。しかし、北部九州にこのような打製石鏃があるのか、やはり、近畿を中心に中国、四国あたりにしかないように感じるのですが、如何でしょう。

 私は、搬入品の可能性を探りたく思います。旧嘉穂町榎町遺跡から兵庫あたりで見られる第Ⅳ様式のⅢに相当する系統の土器片が数点出土しています。榎町遺跡は、かつて九州歴史資料館で遺物整理の担当された岩瀬さんがかかりっきりで整理してくれました。はっきり申し上げて、中期の土器は1点もなく、縄文後期、弥生前期後半期と後期後半期、後は古墳時代、中世といった物でした。おそらく、立岩遺跡全盛期に当る時期と考えられますが、どう、解釈していいものか困っておりますが、この石鏃も含めて紹介したいと考えています。化学分析も考慮しておりますので、福岡市埋文センターの皆様よろしくお願いします。

ひょっとして、九州の石材でない場合は、面白くなりますが、こればかりはやってみらんとわかりません。福岡でもこんな打製石鏃はあるよとご存知の方、ご一報ください。頼るのはあなたですよ。そう、あなたですよ。

 もう一点、奇想天外かも知れないが、加与丁池で採集された尖頭器がある。考古少年回顧録の図版編に掲載しているが、長さ8.7㎝、幅1.9㎝、厚さ1cmで横剥ぎの素材面を両面に大きく残しており、中央から下半は断面形が6角形を呈している。福岡旧石器研究会の席上皆さんから見ていただいたら、むしろ、弥生の関西や中・四国に見られる尖頭器に似ているという感想をいただいた。実は、「日本の考古学」弥生時代の253ページに記載されている尖頭器とよく似ているという感じは、中学生の頃からあったが、尖頭器=旧石器という観念から全く結びついていなかった。佐原氏が紫雲出遺跡の報告で示した形態、禰宜田氏、平井典子氏が触れているように、中部瀬戸内のものに極めて近いものと考える。

 弥生中期後半から末頃に、先に提示した打製石鏃、当尖頭器、そして、榎町遺跡から出土した第Ⅳ様式のⅢに相当する系統の土器片など、今後、考えなければならない問題が潜んでいるものと直感している。

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コメント

いつも読ませてもらってます。
もう、読んでいると興奮してしまいます。もちろん、理由など言うまでもありません(笑
僕は大分人なんですか、近いですね。北部、中津辺りです。中津、行橋辺りの丘陵までは、自転車で活動しています。もちろん行き先は溜め池です。もちろん、溜め池に行ってやることは、「石器拾い」です。やっぱり、一番最初に拾った物って、印象に残るものですね。僕も、溜め池で一番最初に拾ったものは石鏃でした。
拾った当初は嬉しくて嬉しくて、いつも自分のそばに置いていました。慣れてくると、たくさん拾えてくるもんですね。尖頭器を拾った時の嬉しさは、忘れられません。
あっ、このまま書き続けるといつになっても話が終わらなくなるので、ここら辺で失礼します。
これからもブログ、読ませてもらいます。同じ趣味の立場の僕からですが、活動、頑張ってください。

投稿: 考古学好き?中学生 | 2016年12月12日 (月) 22時16分

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